FC2ブログ

タイトル画像

もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.02.15(07:00) 209

**三浦一族

**周辺氏族
   
 三浦氏は相模国・三浦郡に本拠を置く武士であるが、姻戚関係を含めた勢力範囲は、ほぼ南関東を覆っていた。  具体的にには、東は房総の上総氏・安西氏(安房)、西は相模国大住郡の岡崎氏・土屋氏、北は武蔵の畠山氏・横山党の諸地域・諸氏である。
   こうした関係とは裏腹に、相模武士である鎌倉党や波多野氏とは、必ずしも円滑な関係にあったとは思われない、これら周辺諸氏との様様な関係が、三浦一族のみならず関係諸氏、ひいては鎌倉幕府に結集した関東武士全般の動向に多大な影響を与えた事は、まぎれもない事実である。

**鎌倉党

    三浦郡に隣接する鎌倉郡に本拠を置いた鎌倉党は、三浦氏にとって歴史的に最も因縁のある武士集団である。  鎌倉党に関しても諸系図が確定しない部分もあるが、三浦氏と同祖という点は疑いようがないところである
 鎌倉党の系図を見て注意を惹かれるのは、忠通の子らが何れも「権大夫」「大夫」「権頭(守)」を称している事で、これらは何れも国衙関係の在庁職を手中にし、その権限を背景に三浦郡・鎌倉郡・高座郡、さらには大住郡へと発展していったのである。 後三年の役の活躍で有名な鎌倉景正の「権五郎」という名乗りも、父にあたる人物(景成)が「権守」のような国衙在庁の職名を帯びていたのであろう・・・・・・。
 このように鎌倉党と三浦氏は系図上は極めて近い関係にあり、しかも相模国衙の関係からも似たような立場に有ったと言えるが、両者の関係は当初から思わしいものではなかったようである。 三浦氏と鎌倉党のライバル関係について、史料から解明できる事件がある。
  
   以前にもレポートした大庭御厨「乱入事件」である。  義朝側(三浦氏側)からは先に述べたので、ここでは「乱入」された御厨側(鎌倉党・大庭氏側)の対応をレポートすると、義朝側の在庁官人らが御厨の範囲を示す牓示を抜き取り、御厨内の作田95町分の稲穂を勝手に刈り取り持ち帰り、下級の神官数人を殺害するに至ったとある。  事に対した荘官「平景宗(kagemune)」らは、何ら有効な反撃をしないで上司にあたる担当者に言上するだけであった。
   ここに名を残す下司「平景宗」とは、鎌倉党系図で、大庭景義・影親兄弟の父とされる大庭太郎権守景宗と同一人物であろう。


 乱入事件に於いて、事件の張本在庁官人=義朝=三浦氏と御厨下司大庭氏(鎌倉党)との敵対関係の構図が明瞭に浮き出てきているのであるが、注目すべき事は、大庭氏が自身も「権守」として国衙在庁に多少とも関係していたはずであるのに、在庁官人らに対して直接行動をとっていない点で、それこそ大庭氏(鎌倉党)がこの時点では、武家棟梁清和源氏との主従関係から外れていたからに他ならない。

    この御厨乱入事件の過程で、大庭氏(鎌倉党)内に対立が有り、その事が治承四年(1180)、頼朝挙兵の際に、景義(kageyosi)は源氏側、景親(kagetika)は平氏側という分裂行動にまで尾を引いたとの説があるが、大庭景義と景親・景久との間に内紛が生じたとしても、それは乱入事件の後、大庭氏(鎌倉党)の立て直しが必要になった頃の事と考えるべきで、景義は清和源氏に臣従するとともに、大庭御厨の西端で国衙に比較的近い懐島(futokorosima)(現在の茅ケ崎市)に本拠を移し、自らも「権守」として国衙在庁=三浦氏に接近するようになったのであろう・・・・・。
参考資料・鎌倉党関係系図
鎌倉党3流
参考資料・三浦氏系図
三浦氏系図


次回へ

平成31年乙亥・丁卯・癸未
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<もののふ(兵)ノ家・三浦氏 | ホームへ | もののふ(兵)ノ家・三浦氏>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する