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頼朝後の三浦氏

2016.12.19(08:33) 21

**再興と没落

*北条氏台頭

頼朝の死により絶対的な調停者(頼朝)を失うことになり、幕府内での地位を保つためには、頼朝以後も鎌倉殿(将軍)を自家勢力圏の手中にしておくこと、さらに地域支配の基盤を持つことが政略の基盤になったと思われる。 そして、その地域支配を獲得するには、現にその地域を支配している者を取り込むか排除するしかない。 北条氏が末代まで重要な支配基盤としたのは相模と武蔵の二国であるが、前者については当面三浦介惣領家との同盟、後者については有力御家人比企・畠山氏の排除と武蔵守・平賀朝雅(tomomasa)の取り込みに成功(後に排除)、結局武蔵については承元元年(1207)北条時房(tokifusa)(時政・子)が武蔵守に就任した時点で事実上の国守となっている。
北条政子・供養塔・・浄土宗安養院(鎌倉市・大町)   安養院は政子の法名
北条政子・供養墓
尼将軍・北条政子墓・・(鎌倉五山三位・寿福寺)・・鎌倉市・扇ヶ谷
政子墓・寿福寺


病に倒れた頼家に、妻の父能員が、相続をめぐって対立していた時政追討を進言した。 頼家は病床に能員を呼び、追討の事を話したが、たまたま障子一枚隔てた隣室にいた政子が二人の密談を聞き、父時政に急報した。 通報を受けた時政は、直ちに広元邸に向かい、二人は善後策を協議したが、最終的に広元は時政に措置を一任した。 そこで時政は能員を自邸に呼び出し謀殺した。 同時に政子の指令によって義時以下の兵が能員邸を襲い、頼家の子一幡(itiman)や能員の嫡子らを殺害してしまった。    (吾妻鑑)
当時頼家は広元邸で療養していたという説があり、これが事実とすれば「吾妻鑑」のように、頼家と能員の密談を政子が聞いたという不自然な設定をする必要がなく、広元がそれを聞きつけ時政に知らせ、両者が会談したという事になり、その後の二人の緊密な連携からみて説得力がある。    (愚管抄)

この事件に関して、三浦氏はどの様に動いたのであろうか。 三浦介義村(yosimura)と和田義盛・常盛父子らが、 能員邸に派遣された軍兵に加わった事、事件後、姻戚と思われる能員を救援する行動を一切取らなかったのである。  三年前に義澄と長老・義実が相次いで死去した三浦氏にとって、ここは下手に動けない、命取りになるやもしれないという事であろう。 終始時政・政子の主導に従っている。    (吾妻鑑)
こうして時政は、広元・義盛らの支持を取り付けた上で、武蔵を本拠とする能員を滅ぼし、次期鎌倉殿の千幡(実朝)の外孫の地位を確実にした。 次の北条氏の標的となったのは、これも武蔵の有力武士・秩父党畠山重忠(sigetada)だ。 その重忠排除のきっかけは、子の重保(sigeyasu)が京都在任中に前武蔵守・平賀朝雅(tomomasa)と口論したことが発端で、牧の方(朝雅は女婿)が時政に訴え、反対する義時・時房を抑え、まず重保を討たせ、ついで鎌倉に進軍してきた重忠を武蔵・二俣川(futamatagawa)に迎え撃って、一族郎党134騎を討ってしまったのである。     (吾妻鑑)
この際の三浦一族の動向も、頼朝時代に宿老を四人も輩出した勢いは殆ど感じられなかった。  現実を見てみよう、まず、元久二年2月に、重保が稲毛重成(sigenari)に鎌倉に呼び出され、時政の命により由比ヶ浜でだまし討ちにされた、討ったのは事もあろうに三浦義村である。 さらに重忠迎撃軍の大手軍大将に北条義時(時政・子)の麾下として義村・胤義兄弟が従い、和田義盛は時房と共に関戸大将軍に任じられた。   (吾妻鑑)

他の有力御家人も時政・義時の命令のままに動いているので、三浦一族のみを批判するのも酷だが、それにしても重忠は三浦義明の娘を妻としているだけに残念だ。  どうもこのころの三浦氏は、比企能員謀殺の時と同じく宿老家の誇りを捨て去ったように見える。
かつての宿老筆頭と位置づけられた勢いは何処へやら、義澄の後継者義村も宿老義盛もおしなべて北条氏と広元の協調関係を支援するという役回りに甘んじて見えるのだが、三浦介として相模一国を事実上支配している点で、さすが北条氏もそこまで手を伸ばすことは時期尚早と判断した様だ。  ちなみにこの時期下総の千葉成胤(naritane)(常胤・孫)・下野の小山朝政の両宿老ともに、守護の地位を認められているのである。
おそらく三浦・千葉・小山三氏の守護職というよりは、各国に対する宿老の支配を牽制するためにとられた措置で、北条氏が主導し、広元が奉行人となった事が実相であろう。     それにしても、宿老家・三浦氏はこの先どの様に再興するのか?・・・・・北条氏と大江広元の協調体制はどの様に変化していくのでしょうか。・・・・・・ 次回に続く

丙申・辛丑・乙亥
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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