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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.02.20(07:00) 210

**三浦一族

**鎌倉党(続)

   見てきたように、鎌倉党と三浦氏との関係は鎌倉党の内部が必ずしも一枚岩ではなかった事もあって、かなり複雑な様相を呈しているのであるが、両者の間の同盟と対立の関係は、後に幕府が置かれ中世都市として発展する鎌倉の地を巡って、とりわけ鮮明に現れているのである。
  鎌倉郡鎌倉郷は、古来郡衙が置かれ、東海道が由比ヶ浜沿いに通っていた事などから、鎌倉郡の中心的な小都市として発展していたと考えられるが、十一世紀後半に平直方(naokata)が源頼義(yoriyosi)に鎌倉の地を譲ったとされて以来、武家棟梁清和源氏の関東における拠点になっていたと考えられるのである。
  ところが、それ以前に鎌倉郡に土着した鎌倉党のうち、権五郎景政(kagemasa)の家系の者は、東海道沿いに鎌倉郷にまで勢力を伸ばし、その勢力圏は大庭氏が継承したと思われるのである。
    その根拠として、古東海道が鎌倉郷に入る辺り(鎌倉・坂の下)に、景政を祭る御霊神社がある事。  頼朝が鎌倉に入部した治承四年に、頼義が創建した鶴岡八幡社を、由井から小林郷に移した奉行人が大庭景義だった事。
   つまり、鎌倉党大庭氏は名字の地である高座郡大庭御厨の南西部、懐島から鎌倉郷に至る間の東海道地域を抑えていたと考えられるのである。

   対して三浦氏の方は、本拠地三浦郡から北方に進出し、後に都市鎌倉の有力な外港となる武蔵国久良岐郡(kuraki)六浦(mutuura)から朝夷奈(asaina)を超えて鎌倉郡に至る六浦道沿いの地域を手中に収めるようになり、義明の代にはこの地域はおおよそ長子義宗(yosimune)(和田義盛の父)に譲られていたものと思われる。
  このように三浦氏が鎌倉党の縄張りにも等しい鎌倉郡に進出できた理由の一つは、頼義以来鎌倉郷に利害を持つ様になった清和源氏の後ろ盾が有ったからであろう。 先に記述したように三浦氏による若き義朝の養育そして鎌倉館の造営も、そうした清和源氏と三浦氏の鎌倉を巡る緊密な関係を表している。

   こうした清和源氏・三浦氏連合の鎌倉郷への進出は、鎌倉党大庭氏との利害の対立を生んだものと想像される。  いわゆる大庭御厨「乱入」事件の背景にも、両者の利害の対立が有った事は十分に考えられる。さらに、大庭御厨「乱入」事件当時、大庭氏の内部で景宗・景親(kagetika)父子と景義(kageyosi)との間に対応の相違が生じ、後者が源義朝(yositomo)・三浦義明(yosiaki)連合に妥協的な態度をとった結果、鎌倉については大庭氏の権益は景義が掌握し、義朝・義明の側とも勢力均衡を保つことが出来たと思われる。
  なお鎌倉に関する三浦氏と鎌倉党との均衡状態は、後に源頼朝により保証されるところとなり、その結果、鎌倉市中の警察的役割をも担った侍所首脳として別当和田義盛(三浦)・所司梶原景時(鎌倉党)が並んで任命されている。

   また、鎌倉党は三浦氏と支配地域が隣接していた事もあって、終始ライバル関係にあったが、鎌倉党自体は内部的に一枚岩とはいいがたい状況にあった為、三浦氏との関係も、清和源氏や他の氏族との関係も複雑なものにならざるを得なかった。  逆に三浦氏の側から見ると「介」の地位を家職として「国衙雑事」に交わる事によって「兵ノ家」としての自己の存立を確固たるものにしようとしていた三浦氏にとって、鎌倉郡から国府のある大住郡(oosumigun)までを鎌倉党に抑えられることは容易ならざる事態であり、そうした事態を打開するために、清和源氏と結んだり、相模西部の武士中村氏との連携を深めたりして、鎌倉党を牽制する一方、陸路交通にのみ頼らず、海上交通を手段として大住国府との連絡を密にする事を図ったと思われる。
関係資料・鎌倉党系図
鎌倉党3流
資料・三浦一族系図
三浦氏系図

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平成31年乙亥・丁卯・戊子
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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