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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.02.25(07:00) 211

**三浦一族

**中村氏

    相模武士として三浦氏とは良好な関係にある中村氏は、桓武平氏村岡二郎忠頼(tadayori)の流れといわれる。 忠頼から四代下った村岡宗平(souhei)が相模国中村庄(小田原・中井町)の庄司となり、彼の息子らの世代で、東は現在の平塚市から西は湯ヶ原町に至る広大な地域を支配する様になった。 
  この中村氏一族の支配地域に入り込むようにして、対立的な関係にあった波多野氏の勢力範囲が展開していたため、両氏の関係は対立的にならざるを得なかったのだ。

   その波多野氏を南北から挟むような形で大住郡岡崎に進出していた三浦氏一族との連携を保ち、あわせて三浦氏と共に相模国衙の雑事を分掌する様になったのである。

   中村氏と三浦氏の連携関係は、波多野氏を南北から封じ込めようとの意図の下で成立したのであるが、中村氏と波多野氏の直接的対立は史料には見当たらない、しかし、両氏の確執は根が深かったと想像される。 その事を垣間見る事の出来る事実は、頼朝の挙兵前後の波多野氏の複雑微妙な行動と、その後の中村氏の波多野氏領域内における動向に観られるのである。 すなわち頼朝は挙兵を決意するにあたって、使者を相模武士らに遣わし協力の約諾を取り付けるのであるが、秦野義常(yositune)と山内首藤経俊(tunetosi)は頼朝の召しに応じなかったと言う。

後に頼朝が鎌倉に入部した後、頼朝が義常の許に討手を差し向けると、彼は戦わずして領地の松田郷で自害したという。 これらの事実から、中村氏は日頃波多野氏の領域で自領に近い松田郷に関心があり、頼朝に対する義常の反抗を理由に、松田郷の領有を頼朝に願い出て、頼朝もそれを認めたようだ。 逆に波多野義常が頼朝に従わなかった理由の一つに、日頃からの中村氏との確執があったものと考えられる。

   波多野氏と三浦氏との関係も、その両氏の家系の違い、相模国とのかかわり方の前後の違い、そして支配領域の接触などを起因として鎌倉幕府までは終始対立的な関係として推移しtのであるが、実は幕府成立後も両氏の関係は必ずしも円滑ではなかったようで、例えば建保合戦の際、波多野忠綱(tadatuna)(義常弟)は当初和田義盛方に参じたが、後に幕府方に転じ、合戦終結後戦功の事で三浦義村(yosimura)と口論に及んだという。  この事は忠綱の三浦氏に対する微妙な感情のあらわれと思われる。
参考資料・中村氏、土肥氏系図
中村・土肥氏
相模国・三浦氏関係図千葉氏勢力圏

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平成31年乙亥・丁卯・癸巳
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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