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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.03.05(07:00) 213

**三浦一族

**周辺氏族・・・秩父党

    三浦氏と関連のある関東武士の中でも、最有力といえるのが武蔵国秩父党(畠山氏・河越氏・江戸氏・渋谷氏等)である。
  秩父党も桓武平氏良文(yosifumi)の子忠頼(tadayori)を祖とする事で、上総介・千葉二氏に近いという事になり、子孫の名字を手掛かりに地域的発展を追うと、本拠武蔵国秩父郡から南へ男衾郡(obusuma)畠山庄、入間郡河越庄、豊島郡江戸、橘樹郡稲毛庄、さらに相模国高座郡渋谷庄、下総郡葛西御厨、にかけて、広大な地域を支配下に治めるまでに発展していて、東南は上総介・千葉両氏、西南では鎌倉党と勢力を接する様になるのである。

   秩父党が祖・忠頼から数えて六世代ほどで、関東の広い範囲に進出できた理由は忠頼の子将常(masatune)(秩父六郎)が「武蔵権守」という肩書を既に持っていたらしい(秩父系図)、彼らが早い時期に武蔵国衙の在庁職を取得し、その公権力によって公領の私領化を進める事が出来たからであろう。  彼らが先祖代々培っていた強大な武力が物を言ったのは間違いない。
   秩父六郎(平将常) の子武基(takemoto)が「秩父別当」の肩書を持つのは、関東でも有数の官牧(国営牧場)である秩父牧の管理責任者の地位を得ていたからと思われ、秩父党が大規模な武士団を運営していくために必要だった馬の供給源を抑えていた事を意味する。

  さて次に秩父党諸氏と三浦氏との関係を見ていくなかで、源平内乱初期の相模国小坪と衣笠城における合戦をレポートし、いずれも秩父党と三浦氏が敵味方に分かれて戦ったもので、特に衣笠合戦では本城を秩父党畠山・河越・江戸諸氏に攻められた三浦氏側が、城主三浦義明の自害など屈辱的な敗戦を喫した事は述べた。  
  当時の秩父党と三浦氏の関係は敵対関係にあった。  その原因は久寿二年(1155)の大蔵合戦である。   源義朝の嫡子義平(yosihira)(頼朝兄)が、武蔵国比企郡大蔵の叔父・源義賢(yosikata)を攻撃し、敗死させた事件である。
  この合戦は表面上は清和源氏内の棟梁権をめぐる争い見えるが、実はそれに留まらず秩父党内の惣領権をめぐる紛争、さらには秩父党と三浦氏との対立という関東の有力武士間の対立という構図も描ける複雑な要因が重なった事件であることが見えてくる。

    源平内乱緒戦に一旦は平家方に立って三浦軍を攻撃した畠山重忠(sigetada)が、源頼朝(yoritomo)の許に推参してきた際、重忠が白旗(源氏の旗)を持っていた事に不審を抱いた頼朝の詰問に対する重忠の返答は、「白旗は先祖・秩父武綱(taketuna)が後三年の役に従軍した際、義家から拝領したもの」 と説明し、大蔵合戦の際、父重能(sigeyosi)がその旗をかかげて義平(頼朝兄)に味方して戦ったことを述べている。
  大蔵合戦の時の敵と味方を整理すると、源義平─畠山重能対源義堅─河越重隆(sigetaka)が浮かび上がってくる、この事から大蔵合戦は秩父党内の内紛でもあったとも云える。  因みに合戦の時の畠山重能は先祖武綱(taketuna)から伝わる「白旗」を掲げて戦い明らかに自分(畠山氏)を秩父党の嫡流と意識していたことになり、そこに秩父二郎太夫を名乗る重隆と、党内の惣領権をめぐる争いがあった事が推測できる。

   大蔵合戦に於ける三浦氏は義平─重能側に味方していたと推則する。  源義平の母を三浦義明の娘とする説と実際に父義朝と義明との間の主従の立場を超える様な濃密な関係を考えれば、義平の後見的な立場に義明がいた事は十分考えられる。
  畠山重能についても嫡男・重忠の「母三浦大介義明女」とある事からすると、畠山・三浦両氏の姻戚関係が見てとれるので、ここに源義平─三浦義明─畠山重能の同盟の成立と三浦氏の大蔵合戦への介入が推測できる。  しかし、三浦氏が大蔵合戦に直接参戦した形跡はない。

    平治の乱(1159)の敗戦で義朝が没落した事による情勢の変化を考えねばならないが、頼朝挙兵当時、重忠の父重能と叔父の小山田有重(arisige)が共に在京していたため重忠としては祖父の代以来三浦氏に対して怨念を抱いていた重頼(sigeyori)(河越)や重長(sigenaga)(江戸)に従わざるを得なかったと思われるのだ。  つまり、三浦義明と畠山重能との緊密な関係は、平治の乱後も続いていたであろうが、頼朝挙兵時にはその関係が有効に働かなかったという事ではないかと推測する。

   以上の様に三浦氏と周辺の有力武士との相互関係を見てきた。・・・・
    この他にも三浦氏と関係の深かった周辺の有力武士として、一族の和田義盛と姻戚関係にあった武蔵七党の一つ横山党、三浦義澄(yosizumi)を婿とした伊豆の伊藤祐親(suketika)、比企能員(yosikazu)等はまた、別の機会にレポートする。
参考資料・武蔵秩父党系図
秩父党
参考資料・三浦氏系図
三浦氏系図

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平成31年乙亥・戊辰・辛丑
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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