FC2ブログ

タイトル画像

もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.03.10(07:00) 214

**三浦一族

**流人頼朝

   平治元年(1159)12月、京は異様な雰囲気に包まれた。  数百騎の軍兵が後白河上皇の御所を襲撃、上皇の身柄を拘束した後、御所に放火し、さらに上皇の寵臣・藤原信西(sinnzei)の屋敷を襲撃した。 信西は事前にこの襲撃を察知していたらしく一旦は脱出したものの、逃亡途中首を取られた。   (平治物語)

   後に平治の乱と呼ばれるこの事件の発端をなしたあの軍兵は、藤原信頼(nobuyori)と源義朝(yositomo)に率いられていた。
  保元の乱の時は、崇徳上皇方を倒した後白河天皇(当時)方に、義朝は平清盛(kiyomori)と共に付き、勝利の立役者となったが、源家は義朝の父為義(tameyosi)と弟たちが、天皇の命で義朝の手で処刑され、その結果源家全体の権威は大きく減じてしまった。  対し清盛の方は一気に上昇気流に乗って中央政界に進出する機運が高まりつつあった。
  対する義朝は、後白河上皇の近臣・信西が清盛に近いことから、信西のライバルである藤原信頼を支援し、まず上皇を抑えてから信西を倒し、その勢いで清盛を圧倒する作戦を立て、清盛が紀伊の熊野神社参詣に行った隙を突くという作戦を実行した。

   この時義朝軍として作戦に参加した兵は、義朝の子悪源太義平・朝長・頼朝、一族として叔父義高・義盛(後に行家)・平賀善宣がおり、郎党として関東武士の相模波多野義道・三浦義澄(yosizumi)・山之内首藤俊道・同俊綱、武蔵長井斎藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・足立遠元・上総介広常等であり、他に常陸・上野の武士も加わっていたようだ。  また関東以外でも近江・尾張・三河・信濃・甲斐の武士の名も見える、義朝の武家棟梁としての地盤が東国にあった事を示している。   (平治物語)

   緒戦は信頼・義朝の筋書きどうりに進行したが、清盛の素早い反撃がそれを打ち砕いた。  熊野への途中で清盛邸からの急報を受け、直ちに京に戻り、信頼・義朝の軍勢を破り、後白河上皇の身を取り戻した。  敗れた信頼は六条ヶ原で斬首され、義朝は本拠の鎌倉に戻って再起を図ろうとしたが、尾張辺りで家臣に裏切られ謀殺されてしまった。嫡男・義平、次男・朝長も平家方に捕らえられ六条ヶ原で斬首されている。
   一方三男頼朝は乱では十三歳で初陣し、郁芳門(ikuhou)の合戦で活躍し、、華々しい初陣であったが、父の敗戦でやはり東国に落ちる途中、関ヶ原で平家の追手に捕えられて、六波羅の清盛の前に引き据えられた。  そして兄義平と同じ運命をたどる筈の所、清盛の継母・池ノ禅尼(ikenozenni)に助けられ伊豆への流罪となった。

   平治二年三月、伊豆蛭ヶ島(hirugasima)に到着。  流人の受け取りと以後の監視の役目は、土地の国衙在庁の手にあり、伊藤祐親(suketika)と北条時政(tokimasa)の二人は、まさしく在庁官人としての職務を果たすべく頼朝を出迎えた。

 ところで、乱の最中義朝と共に戦った関東武士たちは、その後どうしたのだろうか。 「平治物語」 には、義朝が近江・坂本から瀬田辺りを落ちていたころ、同道した波多野・三浦・熊谷・足立・上総介等に、義朝は皆一緒には落ちられないので暇を取らすとの命を下したそうだ。  三浦義澄はじめ前記の関東武士たちは、本領地に落ち着く間もなく、主君義朝および、義平・朝長の死と、頼朝の伊豆配流という知らせを聞くことになった。

   棟梁・清和源氏の没落は、かれら関東武士の生き方にも影響を与える事は必定であった。  平治の乱には参戦しなかったと思われる相模鎌倉党では、義朝─三浦ラインに近かった大庭景義(kageyosi)に代わって、弟の大庭景親(kagetika)が「平家被官」となって鎌倉党を牛耳るようになり、武蔵秩父党でも一旦源家と組んで惣領の地位を得たらしい畠山氏が落ち目となり、代わって河越氏が平家の後ろ盾を得て再び惣領権を獲得した模様である。  そして三浦氏にしても平家の催促に応じて、はるばる京都に上り番役を努めなければならない状況だ。
参考資料・清和源氏系図
清和源氏・系図
相模鎌倉党・系図
鎌倉党3流
武蔵・秩父党系図
秩父党


次回へ

平成31年乙亥・戊辰・丙午
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<もののふ(兵)ノ家・三浦氏 | ホームへ | もののふ(兵)ノ家・三浦氏>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する