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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.03.15(07:00) 215

**三浦一族

**流人頼朝(続)

 伊豆の頼朝と言へば、在庁官人の監視下に置かれていたとはいえ、かなり自由な境遇にあったようである。  乳母の身内である三善康信(yasunobu)・(後年幕府問注所執事)からは、月に三度も京からの使者が蛭ヶ島に来て、京都情勢を伝えていたらしい。 何よりも乳母の一人である比企尼(hikini)が武蔵比企郡に住んでおり、女婿の安達盛長(morinaga)を通じて、日常生活に不自由の無い生活を送っていたようだ。  しかし源家棟梁として「流人」 という立場は全く不安定であり、その分義朝の家臣であった三浦氏ら関東武士に対する期待・依存の念は大きかったと思われる。
   対して平家側の人間として身近にある伊東・北条に対する警戒心も強かったであろう。
  こうした中で伊豆に比較的近い相模・三浦郡に居た三浦氏は、流人頼朝とどの様な関係を保とうとしていたのだろうか。  三浦氏が平家に気兼ねをして番役を務めたりしながらも、本主である源家に対する忠誠心を失わなかった事は、衣笠落城の時、義明が語ったされる有名な言葉を紹介する。

***「吾れ源家累代の家人として、幸ひにその貴種再興の時に逢ふなり。けだし喜びとすべき哉」

   直接伊豆の頼朝にどのような奉仕をしたか知る由もないが、注目すべきは三浦嫡流の義澄(yosizumi)が頼朝の監視役のひとり伊藤祐親(suketika)の女婿であるという点である。  伊東氏と三浦氏は在庁官人レベルでの緊密な関係で結ばれていたと思われ、姻戚関係はそれを一層強固なものにしたであろう。 したがって三浦義明─義澄父子は、流人頼朝に対して表立っての支援を避け、伊藤祐親を通じてそれを行っていたのではないかと想像する。

*この姻戚関係は少々意外な関係という・・・・・・印象を持つ   (mituurokoⅡ)

   流人時代の頼朝にまつわる最大の出来事は、何と言っても北条政子との結婚、すなわち、伊豆の「豪傑」北条氏とのミウチ関係の成立である。  この事は当事者である頼朝と北条一族だけでなく、のちに頼朝の下に結集して幕府を形成する三浦氏等の武士たち、ひいては日本の歴史に大きな影響をもたらす事になるのであるが、差し当たりは伊豆や関東の武士仲間に、多少の波紋を起こしたと思われる。 お互い平家の鼻息に気兼ねをしなければならない在庁仲間の伊東氏にとっては、少なからぬ驚きであったろうが、先ずは静観という立場をとったのであろう。

   このころ北条氏と三浦氏がどのような関係にあったは不明であるが、伊東氏との結びつきが、単に在庁という共通項だけでなく、ともに海上交通に携わる者という面では連携関係を基盤にしていたと思われるのに対し、伊豆時代の北条氏が海上交通に関係していたとは言えないので、北条氏・三浦氏関係は伊東氏・三浦氏関係に比べれば希薄であったのではなかろうか。

   何れにしても三浦氏にとって流人頼朝が北条氏のミウチに取り込まれるという事態は、予想外の展開であったろうが、しかし彼の貴種性、すなわち源家棟梁の嫡男という立場が損なわれたわけではなく、相変わらず忠誠を心掛けたのである。

   そうした三浦氏を頼朝の方もいかに信頼していたかは、治承四年挙兵直前の頼朝に関する「吾妻鑑」の記事がある。

 **「兼隆(山木)を征らるべき事、来る日をもってその期と定める。 就いては岡崎四朗義実(三浦義明弟)、同与一義忠を頼みにしているが、さらに土肥次郎実平を相伴いて参向するとの伝、義実の許に仰せ遣わされた。」  (mituurokoⅡ説)

参考資料・三浦氏系図
三浦氏系図
参考資料・中村氏・土肥氏系図
中村・土肥氏

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平成31年乙亥・戊辰・辛亥
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