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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.03.25(07:00) 217

**三浦一族

**鎌倉殿

    頼朝に調停者という役どころを期待した三浦・千葉・上総三氏が、何れも「介」 である事、即ち各国の国衙在庁関係の有力者たちであるのは偶然であろうか。  おそらく平家の天下になって以降、具体的な事例は無いが、もともと源家累代の家人であった国衙在庁関係者と、そうではない人々(平家被官)との軋轢が多かった事は十分に考えられる。 とくに「介」の地位は、国家によって公認されたものと言うよりは、先祖代々の家職として武家棟梁から私的に安堵される性質のものであったから、その地位ないし権限を脅かすものに対しは、棟梁の権威を後ろ盾にして対抗せざるを得なかったのであり、棟梁の不在は「介」の地位を帯びる者にとって絶対に避けねばならない事態であったのではないか・・・・。

    情勢を的確に見極める事に敏い頼朝は、そうした国衙在庁関係者の自分に寄せる思いは十分に察知していたと思われる。 そして彼の側からも、関東武士の中でも特に三浦・中村・千葉・上総介といった国衙在庁関係者の大物たちを重視し、彼らの支持と武力を基盤にして、自己の支配圏を広げようとしたのである。

    ここで挙兵直後の頼朝の行動を見直して観る事にする。    挙兵緒戦に、伊豆目代・山木兼隆(kanetaka)を急襲し彼を倒したことが象徴的である。
  このころの伊豆は、平家の重鎮で清盛の義弟にあたる大納言・時忠(tokitada)の知行国であり、時忠の子時兼(tokikane)が国守であったが、彼は遥任の国守であり、兼隆が代官(目代)として事実上伊豆国衙の最高権力者になっていた。
  頼朝は初戦を山木館と定め、日頃伊豆の武士と目代との軋轢を最大限に利用したと考えられる。  武士たちにしてみれば、日頃のうっぷんを晴らすという意味もあったのであろう。  「吾妻鑑」にはこの戦いを「国敵」を討つというような表現がされているが・・・。  ここで云う「国敵」とは、日本国レベルでの敵というよりは、伊豆国レベルでの敵という事であろうから、先に述べた伊豆の武士たちの敵という事になろう。

   兼隆館襲撃に加わった武士の中に、北条時政の他に工藤成光(sigemitu)という国衙在庁関係者がいた事は、特に目代・兼隆によって「介」という地位ないし権限を抑圧された者として頼朝の挙兵=目代打倒を支持したからと思われ、この襲撃は伊豆の国衙機構掌握をめぐる闘争でもあったと考えられる。
  ただし伊豆の国衙在庁関係者がすべて頼朝に付いたわけではなく、伊藤祐親(suketika)などは兼隆の後見だったため、あくまでも平家に忠実であったのである。

    さて頼朝は緒戦に勝ったものの、石橋山の戦いで平家方の大庭景親(kagetika)・伊藤祐親(suketika)に挟撃されて惨敗し、箱根山中を逃れて真名鶴(manazuru)から船で安房に渡り、ここから上総介広常の館を目指した。
  しかし、平家方武士来襲の危険を察知し、ひとまず安房国在庁安西氏の邸宅に落ち着き、使者を介して千葉介常胤(tunetane)と上総介広常(hirotune)に来援を促す事になった。

    常胤は、一族こぞって頼朝方に付くことに決したとは言え、下総目代が「平家家人」 であり、領家判官代親政(tikamasa)という者は、平家の姻戚であったから、後顧の憂いを断つため、まずこうした勢力を倒す必要があったのである。 つまり先の伊豆の場合と似て、「介」としての常胤は日頃目代あるいは領家代官との間に確執があり、頼朝挙兵を機に一挙に排除して、下総国衙機構の掌握を達成しようと謀ったのである。

    このように挙兵直後の頼朝の軌跡をたどると、伊豆から房総にかけて諸国の国衙在庁有力者を頼るような形で進んだと言える、その仲介役を果たしたのが相模国衙関係の最有力者三浦氏であったのである。  頼朝の行動が国衙を基盤とし、あたかも国衙機構の掌握を目論んでいた事の証がこの後、鎌倉入部に現れる。

   鎌倉入りを果たした後、平家の正規軍を富士川に迎え、これを打ち破り、その帰途相模国府(大磯町)にて最初の論功行賞を行ったのである。  そして北条時政・千葉常胤・三浦義澄・上総介広常・和田義盛と云った面々が本領を安堵され、あるいは新恩に浴したのである。
  ここで頼朝は後に鎌倉殿と言われる武家棟梁としての源家の再興を正式に宣言したのである。 鎌倉幕府が主君鎌倉殿と御家人との間の主従関係を軸として成り立つ軍事政権であると規定すると、まさに新しい政権が歴史上に出現したことになる。
古東海道・三浦半島側口  走水の海岸
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走水神社からの遠景
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平成31年乙亥・戊辰・辛酉
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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