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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.03.30(07:00) 218

**三浦一族

**幕府(鎌倉殿)との存立

  頼朝が最初の論功行賞を相模国府で行った事にある意図を感じる。   それは鎌倉幕府の核が国府で生まれたと表現したのではあるまいか?・・・・・。
  しかもこの時頼朝は三浦義澄の「三浦介」 を安堵しているのである。 介は本来律令法に定められた国司次官の地位であるから、頼朝がその地位を私的に安堵した事は、それ以後頼朝と家人の関係を律令法を超えた新しい法の下に置くことを頼朝主従が認めた事を意味するのである。
  そして相模国についていえば、国主は頼朝であり、彼の代官として三浦介義澄が正式に就任した事を意味するのであるが、これは後に関東御分国といわれた伊豆・上総・下総・武蔵などの諸国についても適用されていったのである。
   先に述べた鎌倉幕府の核の行政的発展として、頼朝による国衙在庁支配が、在庁官人である御家人武士を介して行われるようになり、頼朝の実効支配の及ぶ諸国が、幕府の中核的な政治基盤となったのである。

*鎌倉幕府の核・・・・鎌倉殿と御家人の主従関係

    相模国府における論功行賞のあと、頼朝は常陸国府(石岡市)に到着、平家方の佐竹氏討伐について作戦会議を行っている、当時の常陸国は平家寄りの左大臣・藤原経宗(tunemune)の知行国で養子で平重盛(sigemori)を父にもつ宗実(munezane)が介であり、平氏知行国に含められていた。  しかし、宗実は遥任で事実上常陸国衙の最有力者は、上総介広常の縁者とされる佐竹氏と思われる。 

   同国には「常陸大掾」を家職とする家系があり、頼朝の頃には多気氏(takesi)を名字としていた。 この多気氏は後に御家人になっている事から考えて、挙兵までは佐竹氏と対立的であったと思われ、佐竹氏攻撃軍にも加わっていたと思われる。  つまり頼朝の佐竹氏討滅行動も、国衙在庁レベルでの平家の影響力を排除する事によって、反平家方の国衙関係者の地位を安堵し、彼らを通じて一国の実効支配を完成したと考へる。

    以上の様に、国衙在庁関係者を媒介とする頼朝の地域支配の獲得は、逆に関係者である武士たちに、どのようなメリットをもたらしたのであろうか・・・。 例を三浦氏に採ると、何といっても義澄が「三浦介」を安堵された事は、代々武家棟梁により安堵されてきた家職が平家の天下になって不安定になっていたのを復活できたことを意味し、現実的にも地域(国敵)最大のライバル鎌倉党大庭景親(kagetika)を排除し、親しい関係の懐島(大庭)景義(kageyosi)との連携関係を成立させた事も、三浦介としての国衙雑事の遂行をスムーズにする要素となる事であった。

   さらに従前緊密な関係にあった房総の国衙在庁関係者(千葉氏・上総氏・安西氏)が、それぞれの国でやはり国衙機構を掌握し、その事を通じて頼朝(棟梁)との主従関係を復活した事で、三浦氏にとっては彼らとの連携自体を頼朝に安堵された事を意味し、今後展開するであろう幕府政治における三浦氏の位置が、早くも定まったと言ってよいのである。

    ただし三浦氏についてみると、先に述べた国衙レベルでの他氏族との連携を脅かすことになる要素、つまり頼朝を「ミウチ」 に取り込んだ北条氏の存在、及び惣領家とは別に論功行賞の対象になった和田義盛・岡崎義実ら庶子家の自立傾向もまた早い時期に現れており、幕府における三浦氏の位置も、必ずしも確固としたものには成らない予感を与えた。
参考系図・三浦氏
三浦氏系図
大船フラワーセンター・玉縄桜ライトアップ
玉縄桜2

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平成31年乙亥・戊辰・丙寅
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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