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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.04.05(07:00) 219

**三浦一族

**鎌倉幕府・三浦氏の存在

    十二世紀の終わりに成立した鎌倉幕府の政治過程を大きくⅢ期に区分する考え方は、学会で定説となっている。
 
(一) 将軍独裁政治 (頼朝期) 
(二) 北条氏による執権政治 (十三世紀初・中期) 
(三) 北条氏得宗家による専制政治 (十三世紀中・終期) 

  第一期については基本的に、研究者の間でも異論のないところだ。
 しかし、後の二期、すなわち執権政治期と得宗専制政治については、それぞれの開始時期や転換時期について現在でも議論が定まっていない。

   とりわけ第二期の執権政治の開始時期 (初代執権は誰か?) とその政治基調の問題をめぐっては、多くの研究者による議論が展開されている。

*政治基調・・・・・北条氏の専制的な政治か幕府首脳部による合議政治か?

    その際各論者が例外なく注目する事柄が、頼朝死去直後に定められた、十三名の幹部による合議態勢と執権政治体制との関係である。  次にその根拠となる『吾妻鑑建久十年四月十二日条』を記す。

  十二日、癸酉、諸の訴論ノ事、羽林(urin)=(頼家)直に聴断せしめ給ふの条、停止せしむべし。 向後に於いては、大小事、北条(時政)殿、同四朗(義時)主、并に兵庫頭(大江)広元朝臣、大夫属入道(三善)善信、掃部頭(中原)親能、  在京、三浦義澄、八田右衛門尉知家、和田左衛門尉義盛、比企右衛門尉能員、藤九郎入道蓮西(安達盛長)、足立左衛門尉遠元、梶原平三景時、民部大夫(藤原)行政等、談合を加え、計 成敗せしむべし。  その外の輩、左右なく訴訟の事を執申すべからずの旨、定めらると云々。

   このように「吾妻鑑」の記述によれば頼朝亡き後、源家の家督(鎌倉殿の地位)を継いだ頼家について、訴訟関係の直断を停止し、時政以下十三名の談合による取り計らいに委ねると定められたというのである。

   しかし、鎌倉幕府の政治における合議制は、何らの前提もなくこの時期に突如として登場したのであろうか。  合議制の前提ないしその伝統はなかったのか・・・・。  幕府が源平内乱の最中に姿を現したとすれば、内乱の当事者である武士たちの軍評定の習慣が、幕府の政治基調に反映されたであろうし、幕府は当初、公家政権の首脳による評議の伝統を一部模倣している面もあったと思われ、いわゆる将軍独裁期の頼朝の政治にも、何らかの形で合議の習慣はあった筈である。  そうした幕府草創期の合議の習慣が、「十三人合議制」から執権政治⇒得宗専制政治へと展開する、幕府の一貫した政治基調であったとも考えられのである。
  そして頼朝期の幕府政治に関与し、後に十三人談合衆にも名を連ねる三浦義澄ら有力御家人の幕府内での位置づけも、頼朝期における合議制の存在という視点から見直すと、従来考えられていた点とは一味異なる側面が見えてくるのではなかろうか。
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