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頼朝後の三浦氏

2016.12.22(17:12) 22

**再興と没落

*建保合戦(和田氏の乱)

幕府は三代将軍実朝の時代に、大きな二つの事件を経験した。  建保元年(1213)の建保合戦(和田氏の乱)と承久元年(1219)の将軍実朝暗殺事件です。前者は北条氏の圧力から抜け出したくなった実朝が、和田義盛を抱き込んで反北条の態度を示すようになったので、義時が三浦義村の協力を取り付けたうえで義盛を挑発し反乱を誘発、これを鎮圧した事件であり、後者はその様な将軍実朝を排除し、代わりに新たな調教可能な将軍を置くために義時が仕組んだ陰謀事件と云われる。
和田一族墓所  (鎌倉市・由比ヶ浜)・・・和田塚ガイド
和田一族墓所
和田塚ガイド
この二つに事件で際立つことは、義時・広元協調路線の事件処理の鮮やかさと、反対に義村が北条氏の云うがままに扱われた哀れな姿でした。   「和田氏の乱」と後世呼ばれてしまった行動は、翌日には、義時・広元の連判状が武蔵など近国の御家人宛に発せられ、義盛方の武士で戦場から離れ国内に隠れる者がいた場合即刻討ち取る事が指示された。

*実朝暗殺事件

次の実朝暗殺事件の際は、義時・広元両名は表立った動きはしていない、事件後京都から後鳥羽上皇の使者が鎌倉に到着、実朝死去の悔みを伝える傍ら、摂津国長江・倉橋両庄の地頭職の改補を要求してきた、幕府としての対応はどの様になったのか・・・・。
尼将軍政子の許に義時・時房・泰時の北条一族と広元が集まり善後策を協議した。    その結果、時房が1000騎を率いて上洛し、上皇側に圧力をかけつつ次期将軍候補として皇子の鎌倉下向を要求したのです。
この間の三浦義村と云うと、「和田氏の乱」では義時と結んで、一族の長老義盛を敗死に追いやり、後に「三浦の犬は友を食らう」などと噂される始末である。   実朝暗殺事件の際も、下手人公暁(kugiyou)(頼家の子)が義村を頼ろうとした為途中で殺し後に、義村黒幕説や裏切り説などの不名誉な評価を下されることになる。
さらに実朝の死のあと、幕府の真価を問われる事件がおきた。  「承久の乱」である。 実朝の急死で幕府が混乱する事を見越した後鳥羽上皇は、寵愛する亀菊に与えた摂津国・長江、倉橋二庄の地頭職停止を幕府に送ったが、幕府はあっさりと拒否する。幕府が要求した皇族将軍の下向を拒絶することで対抗し、その後は武力での討幕を計画する。
一方幕府は皇族将軍を諦め、頼朝とも関係のある九条道家の子(三寅)を鎌倉に迎え、将軍宣下があるまで北条政子が後見することにした。  これで政子・義時・広元三者による政治体制が出来上がった。   この体制は二年後に幕府存亡の危機に直面することになる。    次回に続く

丙申・辛丑・戊寅
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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