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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.04.10(07:00) 220

**三浦一族

**将軍独裁

   鎌倉幕府草創者源頼朝は確かに『独裁者』のイメージが似合っている。
  彼が武家棟梁清和源氏の嫡流という「貴種」 として、御家人らの上に君臨し、また御家人たちもかれに絶対的忠誠を当然の事と感じていた事も事実であろう。  何よりも京都神護寺に伝わる頼朝像とされる坐像の、凛として人を寄せ付けぬ姿が、頼朝=独裁者というイメージを決定づけているらしい・・・・。

   頼朝「独裁」の証拠を、いわゆる御前対決をはじめとする各種訴訟の採決ないし判決の事例に明確に現れていると研究者は表現する。
  頼朝の「御前対決」の例は「吾妻鑑」に多く見られるが、ここでは具体的に記さない。  何れの場合にも頼朝が唯一・最高の裁判官である事は明らかであり、字義通りの独裁を行っている。 そして頼朝時代の訴訟処理は、問注所でまず原告・被告が提出する文書を受理・審査し、さらに原告・被告を幕府に召喚して口頭弁論を行い、結果を頼朝に報告すると、彼が理非の裁定を下すという経過をたどるのが一般であったから、初期段階に行われた御前対決は、頼朝自身の、「独裁」的理非裁定の特例的手続きに過ぎなかったとも言えるのである。

    その他に頼朝の「独裁」 の様子を探ろうとすると、適切なキーワードは「沙汰」 であろう・・・、「吾妻鑑」に「其沙汰有り」 と表現されるケースから、明らかに頼朝自身の裁定である事例を示すと、鎌倉殿としての頼朝の権限を「安堵」と「理非」という二つの側面に分けられると思われるが・・・・・・。
  幕府草創期つまり源平内乱の最中やその直後に於いては、いわゆる軍略についての頼朝の裁定の仕方は、「安堵」または「理非」とは別の形をとった事が予想されるのである。

    そもそも内乱勃発の時点ではどうであったのか。  平氏打倒の決起を促す以仁王(motihitoou)の令旨が伊豆北条の頼朝の許に到来し、京都から三善康信(yasunobu)の使者が来て以仁王と源頼政(yorimasa)の挙兵失敗、二人の敗死が伝わる。
  その後、頼朝は挙兵の意志を累代家人に伝え、開戦の覚悟と準備を整えるに至った。  挙兵に際しての最初の攻撃目標を伊豆国目代・山木兼隆の館と定め、近臣を山木館に潜り込ませ周辺の絵図を作るなど準備を進めた。
武衛・北条殿等、主だった者が集まり、絵図を検討、軍の進む道路、う回路などを申し合わせたのであった。  これを見ると、傭兵について頼朝が直接指示したと映るが、実際には時政の案に頼朝が最終判断を下したのである。

    その後、石橋山の合戦に敗れ、頼朝が少数の武士だけを従えて箱根山中から土肥・真鶴を経て海路安房を目指す事になったのも、実は土肥実平(sanehira)の建言によるものであった。   
  このように始まった源平内乱の過程で、頼朝と彼に従う武士たちにとって、疑うことなく大きな画期となったのは、鎌倉入部であった。  そして鎌倉入部を頼朝に決意させたのも千葉常胤の進言であったとされる。

    頼朝は入部直後から鎌倉の整備に着手するのであるが、頼朝入部以前から鎌倉に利害のあった三浦氏(和田義盛)と鎌倉党(大庭義景)の建言と施行が大きな位置を占めたものと推測される。 すなわち鎌倉を「城郭化」するという、極めて戦力的な要素が強かったので、頼朝の独断というよりは、有力武士たちとの「談合」 で立案・施行されたと考える。
古東海道・相模国側 走水神社付近  
東海道・走水
走水神社
走水神社

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平成31年乙亥・己巳・丁丑
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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