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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.04.20(07:00) 222

**三浦一族

**頼朝の死

   頼朝の死は幕頼府関係者にとって大きな衝撃であった事は言うまでもないし、幕府の政治は重大な局面を迎えたと言える。  
  特に頼朝時代は彼の優れた調整能力によって均衡を保っていた宿老(代表格・三浦氏)・頼朝後見(時政)・吏僚(首脳大江広元)の関係は、頼朝に代わる調停者の不在によって、大きくバランスを崩すことになる。

   すなわち、宿老御家人の役割のうち、群議への参加及将軍の他行への供奉、或は宴席への参加といった形式的な役割以外は全て北条時政及び彼の子孫に吸収されて行くことになる。
  軍事責任者たる役割では、承久の乱の際の上京軍の司令官に北条泰時(時政孫)と北条時房(時政子)が任命され,幕府方を勝利に導く活躍を見せ、乱の終結後は京都に留まり初代六波羅探題として西国に幕府の威令を浸透させたのである。

*六波羅探題北方・北条泰時  *南方・北条時房  

   そして特に目立つのは「椀飯」(oubann)で、この正月行事のほとんどは北条一門の独占するところとなってしまう。   
 要するに鎌倉幕府政治の変遷について、頼朝時代の将軍独裁政治の次に現れた執権政治及び得宗専制政治と言われる政治形態に移行するための過程と思われ、北条時政の子孫とくに嫡家(得宗家)が権限を掌握する政治形態へと推移したのである。

   しかし、群議への参加だけは、政治形態が変わっていく中で、形を変えつつも一貫して継続されていったのである。  なぜそうなったのか・・・・・。  幕府政治の特質と大きく関わりのありそうなこの問題について、頼朝時代の宿老の筆頭ともいえる三浦氏の動向を中心にレポートを進めたい。

   頼朝の死後、すなわち正治元年(1199)、二月に家督に付いた頼家(yoriie)はこの時18歳、当時としてはすでに一人前の男であり、随分張り切っていたに違いない。  頼朝の妹婿一条能保(yosiyasu)という貴族の郎党であった後藤基清(motokiyo)から罪科ありという理由で讃岐守護職を取り上げるなど、早速鎌倉殿の威厳を振るい始めたのである。 ところがこれに幕府幹部らがクレームを付けた。   幕府幹部らが、今後は訴訟に関しての頼家の直断を停止し、幹部十三名による「談合」で取り計らうという決定を下したのである。 (13人合議制)

    十三人談合衆メンバー『吾妻鑑記載順』 

〇 北条時政 62歳  伊豆  頼朝岳父(後見)
〇 北条義時 37歳  伊豆  時政男
〇 大江広元 52歳  京都  政所別当
〇 三善善信 60歳  京都  問注所執事
〇 中原親能 57歳  京都  公事奉行人・京都守護
〇 三浦義澄 73歳  相模  宿老・三浦介
〇 八田知家 不詳  常陸  宿老・常陸守護
〇 和田義盛 53歳  相模  侍所別当 (三浦氏同族)
〇 比企能員 不詳  安房  宿老・信濃守護 (頼家・乳母夫)
〇 安達盛長 65歳  武蔵  宿老・上野奉行人・三河守護
〇 足立遠元 不詳  武蔵  宿老
〇 梶原景時 不詳  相模  宿老・侍所所司 (鎌倉党)
〇 二階堂行政 不詳 京都  政所令

   以上「談合」衆の構成は、宿老七名、吏僚四名、頼家のミウチ(後見)二名であり、これだけで言えば頼朝時代の宿老評議に吏僚幹部と時政・義時親子が加わっていたのであるが、調停者を失ってそれぞれに危機意識を高め、妥協点として見出したのが評議の慣行の制度化であった・・・・・。

秩父党・畠山重忠邸跡 (鶴岡八幡宮東門付近)
畠山重忠
秩父霊場・長泉院(枝垂れ)
秩父霊場・長泉院
秩父・清雲寺 (枝垂れ)
秩父清雲寺

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平成31年乙亥・己巳・丁亥
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