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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.04.25(07:00) 223

**三浦一族

   調停者を失った幕府首脳の三者(宿老・吏僚・後見)はその妥協点として見いだされた評議の慣行を制度化する事によって均衡を図ろうとしたと思われるが、その際主導的に動いたのは最も深刻な危機感をもった北条氏であった。  北条氏が幕府内で高い地位を取り得たのは、頼朝の妻政子の実家であり、かれの後見であったという事に尽きるのであって、武士としては三浦氏のような宿老御家人とは桁違いに見劣りがするし、何よりもよって立つ基盤(地域)が無かったのである。

   後に北条一族が、武蔵国と相模国の支配を重視するようなる理由も、彼ら自身が地域支配という面で弱点があると自覚していたからに他ならない。

   さて十三人「談合」衆の構成に戻ろう、十三人のうち三浦一族が、義澄・義盛の二人と姻戚と思われる比企能員であり、当初は北条氏と拮抗していたが、正治二年(1200)に義澄が死去し、建仁三年(1203)に比企能員が北条氏により謀殺されてしまうので、結局三浦氏は幕府政治の合議態勢から早めに脱落してしまうのである。

   十三人による「談合」と言っても頼家の裁断権をすべて奪ったわけではないと点、少なくとも頼家はその様に理解していなかったと思われる。  いま頼家は理非の面を十三人の幹部に権限移譲させられたものの、安堵の面については依然として直断を行う権限を行使しようとしたのである。

   「十三人合議制」とは言っても「談合」衆が一堂に会して評議をしたわけではない訳で、そもそもメンバーの中には、当初から評議に加わらない在京中の親能がいたし、最高齢の義澄は既に死亡していた。  また、梶原景時も鎌倉から京に向かう途中誅殺され、安達盛長も同年に死去、更に能員も謀殺されるという事で、頼家の代ですでに「談合」衆は多くても八人に減っているので、実際の談合が時政(義時)・広元・善信の三者協議という形になるのも当然であった。

   頼朝時代の宿老評議が内乱期の軍略評定から始まり、その後は頼朝(幕府)にとって緊急かつ重大な案件の処理に関して諮問を受けるという慣行が、「十三人合議制」で制度化したとする根拠となると同時に、この合議制が早いうちに後見北条氏と吏僚大江広元・三善善信だけの評議体となり、やがて時政(義時)広元の協調体制に移行する野であって、いわゆる執権政治はこの様にして成立したと言って良いのであろう・・・・・・。
鎌倉幕府最初の幕府跡(大蔵御所)
幕府跡
頼朝・墓所(大蔵)
頼朝墓
幕府・第五代執権北条時頼公建立 五山筆頭建長寺三門
建長寺三門

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平成31年乙亥・己巳・壬辰
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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