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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.04.30(07:00) 224

**三浦一族

**北条氏台頭

   頼朝亡き後の三浦氏と北条氏の間柄の変化、また三浦氏一族内部の惣領家と庶子家との対立などが表面化してきた。  北条氏は頼朝の死により絶対的な調停者を失うことになり、幕府内での地位を保つためには、頼朝以後も鎌倉殿(将軍)を自家薬籠中の物ににしておくこと、および何らかの地域支配の基盤を持つ事が攻略の基本になったと思われる。

   すなわち地域支配を獲得するには、現にその地域を支配している者を取り込むか、排除するしかない。  北条氏が末代まで重要な支配基盤としたのは相模と武蔵の二国であるが、相模については当面三浦介惣領家との同盟、武蔵については有力御家人比企・畠山両氏の排除と武蔵守平賀朝雅(tomomasa)の取り込みを図り、結局、後に排除して時政の子時房(tokifusa)が武蔵守に就いた事で事実上の国守となっている。
  という事から北条氏の台頭を見てきたが、次に北条氏による他の有力武士の排除の過程と三浦氏の関与についてレポートします。

   まずは正治元年(1199)、一族郎従の敗死をもぅて終わる梶原景時追放事件。  次に建仁二年(1203)の比企能員の謀殺事件を取り上げる。
  この年九月に病に倒れた頼家に、妻の父能員が北条時政追討を進言した。 頼家は病床に能員を呼び、追討の件を話し合ったが、隣室にいた北条政子にこの密議を聞かれ、父時政に通報されたという、有名な話となる。

   時政は自邸のある名越に帰る途中この報を聞き、直ちに広元亭(大江)に向かい、二人は善後策を評議したが、最終的に広元は時政に措置を一任した。  そこで時政は仏事ありと称して能員を自亭に招き、油断を見澄まし、天野遠景(tookage)と仁田忠常(tadatune)の二人に能員を殺害させたのである。
  同時に政子の命で義時以下の軍兵が能員亭を襲撃、頼家の子一幡(itiban)や能員の嫡男らを亡き者にしている。

   この事件は数日で京都にも伝わり、将軍・頼家と子の一幡が北条時政によって討たれたと伝わった。  
  頼家死去は誤報としても、一幡が時政に討たれたとあるのは、本質を伝えたものとして興味深い。  また慈円の「愚管抄」 には、当時頼家は広元亭で療養していたと書かれているが、これが事実とすれば「吾妻鑑」の様に、頼家と能員の密談を政子が聞いたという不自然な設定をしなくとも、広元がそれを聞きつけて時政に知らせ、両者は即座に会談したという筋になり、その後の二人の緊密な関係から見ても説得力のある展開と言える。

   さて、この事件に関して三浦一族はどの様に関わったのであろうか。  目立つ動きとしては、義村と義盛(和田)・常盛親子らが、能員亭に派遣された軍兵の中に加わった事と、事件後、姻戚と思われた能員を救援する行動は一切取っていない。
  一族の長義澄と長老義実が相次いで死去している三浦氏にとって、ここは慎重な行動が一番であった。 終始時政・政子の主導に従っている。

  こうして時政は、広元・義盛らの支持を取付けた上で、武蔵を本拠とする能員を滅ぼし、次期鎌倉殿の地位をもう一人の外孫(千幡)実朝に充てる事に成功したのである。

頼家一子・一幡袖塚 (鎌倉・妙本寺)
一幡君・袖塚
宿老比企能員一族墓所 (鎌倉・妙本寺)
比企一族・墓所
幕府宿老・比企能員邸跡石塔 (鎌倉・妙本寺)
比企能員邸跡・石塔


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平成31年乙亥・己巳・丁酉
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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