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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.05.05(07:00) 225

     ●● 祝・令和改元・・・・・・・・・・

**三浦一族

**三浦一族の動き

    つぎに北条氏の標的となったのは、これも武蔵の有力武士秩父党畠山重忠であった。  その重忠の排除のきっかけは、重忠の子重保(sigeyasu)によってもたらされた・・・。 上洛中の息子重保と前武蔵守平賀朝雅(tomomasa)とが口論となった事が発端で、これを聞いた朝雅を女婿とする時政の妻牧ノ方が時政に訴え、反対する義時と時房を抑え、まず重保を謀殺、ついで鎌倉に進軍してきた重忠を武蔵二俣川に迎え撃って一族郎従百三十四騎を滅亡させてしまった。

   この事件の際の三浦氏の動向も、頼朝時代に宿老を四人も輩出したあの勢いはほとんど感じられない、まず重忠の息子重保が従兄弟の稲毛重成(sigenari)に呼び出され鎌倉に滞在中、時政(北条)の指示により義村(三浦)が重保を由比ヶ浜でだまし討ちにしており、更に重忠迎撃軍の大手大将軍義時(北条)の麾下として義村・胤義(taneyosi)の兄弟が従い、義盛(和田)は時房(北条)と共に関戸大将軍に任じられているものの、その任務は不明である。
  他の有力御家人も時政・義時の命令のまま動いているので、三浦氏のみを攻めるのは酷であるが、それにしても重忠は義明の娘を妻としているいわばミウチである。 重忠の謀殺を防ぐ手立ては無かったのであろうか・・・・・・?
  どうもこのころの三浦一族は、比企能員謀殺の時と同じように、宿老家の誇りを捨て去ったように見えるのである。   更に十年後には、三浦氏惣領家との対立があったとはいえ、和田義盛があえなく北条氏の挑発に乗って敗死してしまう運命にあったのである。

   こうして北条氏は三代将軍実朝時代の初め頃には、将軍を自家薬籠中に納め、宿老連中を排除又は籠絡し、吏僚大江広元の協力を得て、後世に執権政治と言われるようになる形で、幕府の主導権を握る事に成功したのである。  執権政治とは北条氏と大江広元の協議体制で始まったと言った方が真相に近いのではなかろうか・・・。

   そしてこの間の三浦一族の動向はと言えば、かつての宿老筆頭と位置づけられた勢いはどこえやら、義澄の後継者義村も宿老義盛もおしなべて北条氏と広元の協調関係を支援する、という役回りに甘んじていたのであるが、ただ一つ維持していた三浦介として相模一国を事実上支配していたという事である。

   さすが北条氏でもまだそこに手を伸ばすのは時期尚早と判断した節がある。  かつて頼朝より下された「守護職補任下文」により、三浦氏をはじめ千葉・小山氏と共にこの時点では見送られたと思われる。
北条氏の標的となってしまった畠山重保供養石塔   (八幡宮・一の鳥居付近)
畠山重保・石塔
同じく重保の父畠山重忠邸跡石塔   (鶴岡八幡宮東門付近)
畠山重忠
幕府宿老・大江広元邸跡   (鎌倉・十二所)
大江広元邸跡

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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