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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.05.10(07:00) 226

◆◆ 祝・令和元年・・・・・・・・。

**三浦一族

**三浦氏再興は・・・・・

   三代将軍実朝の時代となり幕府は史上で特筆される激動を経験した。  建保元年の和田氏の乱と承久元年の実朝暗殺事件である。

   前者は北条氏の桎梏から抜け出したくなった実朝が、和田義盛(三浦一族)を抱き込み反北条の態度を示すようになったので、北条義時が三浦義村の協力を取り付けた上で義盛を挑発し、敗死させたという事件である
  後者はその様な実朝を将軍の座から退け、代わりに調教可能の将軍を位に付けるために義時が仕組んだとされる陰謀事件である。   この二つの事件で際立つのは、義時・広元協調路線の事件処理の鮮やかさと反対に義村の北条氏の走狗となった憐れな姿である

   義盛には謀反の意志は無かったと思われる、頼朝の時代から重用されてきた自分が、今まさにいわれのない処遇を受け退く覚悟をしていたと思われるのである。  しかし、義盛の三男・朝比奈義秀以下の身内から抗戦の声が上がり武具の備えも物々しく、不穏な空気が流れた。  
  その動きを察した義時は、謀反に備えて、鎌倉中の御家人を集めたが、甲冑は付けないように命じた。

   この時の義盛の心境を察するに、相模守義時の行いは傍若無人なものがある、これについて兵を挙げるべきと、若い者たちが群議しているが、私は諌めている、既に彼らは同心しており止める力は自分にはない・・・・・・・。 と言って決起はしなかった。

   この間、北条義時亭に三浦義村・胤義の兄弟が向かい、和田義盛の出陣を告げた。 しかし、この時点では和田勢はまだ決起していなかったはずである。その兄弟は先祖の為継(tametugu)が八幡殿(義家)に属して以来、源家に恩禄を受けている身であり、今、親族である和田義盛の勧めに応じて、累代の主君に反すれば、天罰を受けるのは必定であると後悔し、北条義時の館へと事の次第を告げたのである。

   三浦義村の寝返りもあって、すべての味方の動きが悟られたと知った和田義盛は、一族郎党を率いて、幕府へと進撃を始めた。  その兵力は僅か150名程度であったが、それを三隊に分けて、御所の南門と相模守義時の館(現宝戒寺付近)、さらには西北の門をも包囲した。  義盛はあえて勝敗を度が壊死していた。 彼が目指したのはただひとつ執権義時の首だけであった。
  義盛が将軍家に対して遺恨は無いと大義名分を振りかざしても、実朝が法華堂に逃げ惑う姿を見た鎌倉武士たちは、和田の謀反と見て、北条方に付いたのである。 

   果たして、「吾妻鑑」の伝えるように、三浦義村は和田義盛との盟約を裏切って、北条方に密告したのであろうか。
  義村の行動は、執権義時との連係プレーによって、和田義盛を心理的に追い詰め、決起せざるを得ないような状況に陥れるためのものであったと思われる。  
  北条義時は、冷酷なまでの政略化であったとされ、義村が本心から和田と盟約を結び、それを裏切って執権邸に駆け込んだのであれば、義時はこの密告に対して忠義とは思わず、裏切り者三浦義村として、決して許さなかったでしょう。   
初代侍所別当・和田義盛一族墓所 (鎌倉市・由比ヶ浜)・・・・・・・。 江ノ電和田塚駅付近
和田一族墓所
源実朝・頼朝を祭神とする白旗神社 (鎌倉八幡宮境内)
白旗神社
安養院(北条政子菩提寺)のツツジ   (鎌倉市大町)
安養院

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令和元年乙亥・庚午・丁未  
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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