FC2ブログ

タイトル画像

もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.05.15(07:00) 227

■■  祝・令和元年・・・・・・・・。

**三浦一族

**三浦氏再興は(続)・・・・・

   和田義盛(yosimori)は三浦義村(yosimori)の主人ではない。 当時の記録などには義盛は三浦の長者などと記しているので、三浦義村は事実上義盛を三浦党の惣領と仰いでいたらしい。 しかし、北条義時は、この事件に於いては、義村を勲功第一と称賛した。
  「三浦犬は友を喰らう也」 と多数の御家人の間では、裏切り行為をした義村への非難の感情があった。 しかし、このようなエピソードは「吾妻鑑」には全く記載されておらず、北条氏が義村について、御家人たちと異なった評価をしていたからだと思われる。

   かつて、梶原景時追放の時には、義村は北条氏との連携プレーの許に、推定年齢二十九歳という若さで、宿老他60数人の面々に対して、オピニオンリーダーとなって、事件を進展させ、さらに寒川に赴き、梶原館襲撃の先遣部隊長の役も果たした。 つぎに、畠山討伐にあたっては、北条方の密命を受けて、畠山の嫡子重保を由比ヶ浜に誘い出し、これをだまし討ちする事により、重忠討伐の口火を付けたのである。

   今度の事件に於いて、和田義盛(yosimori)は将軍からのお使いを再度にわたり受けていて、忍耐して恩赦を待つべきことを諭されていた。  それに、北条と和田の勢力の差は歴然としており、和田側にはとても勝つ見込みはなく、義盛には合戦に及ぶ決心がつかなかった。  しかし、三浦の盟約違反と密告によって、決起を余儀なくされた。

   三浦義村の行動は、北条の謀略にとっては、功績第一と評されるものであった。  おそらくは、義村は囮ととなって、和田義盛の蹶起を誘発したのであろう。   この時、義村の推定年齢は四十三才、和田義盛は六十九歳であって、対等に盟約を交わすには、経歴や貫禄に違いがあり過ぎた。

   猛虎と称された和田義盛も、150人ばかりの勇者を率いて、鎌倉在住の北条方に立ち向かい壊滅した。
  挑発と謀略それに連係プレー、これが北条の常套手段である。
鎌倉権五郎景正を祀る御霊神社 (梶原景時祖先) 鎌倉市・梶原
梶原・御霊神社
梶原景季(景時嫡男)腕塚・仏行寺のツツジ    (鎌倉市・笛田)
仏行寺
名越切通・曼荼羅堂やぐら群 (鎌倉市・逗子市堺)
曼荼羅堂

次回へ

令和元年乙亥・庚午・壬子
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<もののふ(兵)ノ家・三浦氏 | ホームへ | もののふ(兵)ノ家・三浦氏>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する