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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.05.20(07:00) 228

◆◆ 祝・令和元年・・・・・・・・

 **三浦一族

**三浦氏再興は(続)

    1219(承久元年)正月実朝は暗殺された。 直接の加害者は頼家の遺児であり、実朝の甥にあたる公暁(kugiyou)であるが、その背後にいる首謀者が誰かについて、多くの議論がされてきた。  これについて、容疑者の一番目には北条義時が挙げられているが・・・、その二番目には三浦義村が考えられている。

   まずは第一容疑者北条義時にについてレポートする事に・・・。  以前からこの説は有力であったが、その代表的な論拠は「鎌倉市史」などに記されている。  「実朝が幼い時は、義時の操り人形として、実朝を自由に操れたが、成長するにつれ青年政治家として、種々の要求を拒む事態が起きてきた。  義時としては、多くの豪族を滅ぼしてまでも築いてきた北条の将来が、実朝の成長によって妨げられるのを怖れて、これを葬ったとされている。

   確かに、実朝は青年政治家として、多くの事を決裁する様になっていた。  しかし、義時にとって将軍を亡き者にする事が、彼の立場を有利にしたのであろうか。  
  実朝と義時の間には殺人に至るまでの恨みは存在しなかったし、また、政治上の意見が異なる場合があっても、それはある意味では些細なものであった。 もし義時が、青年となった実朝が邪魔であったなら、殺さずとも引退させれば目的は達成できたはずである。

   事実、四代目の将軍頼経(yoritune)も幼時に位に付き、成人に達し政治的動きをするようになると、引退を余儀なくされ、幼い嫡子、頼嗣(yoritugu)に将軍職を譲らされた。
  政子の目的としたところは多々あったが、そのうちでも重要事項は実朝の後継者として、鳥羽上皇の御子を関東へ下すよう頼む事であり兼子も内々これを約束していたらしい・・・。 当時実朝は二十七歳、子が出来ない年齢ではないのだが、早くも後継者の準備をしているのも理解しがたい話である。
   おそらくは、政子は義時との間が険悪になるのを避けるため、次の将軍を探していたのであろう。

   つぎに、将軍が居なくなれば、幕府も倒壊し執権職もなくなる怖れがあったので、義時は将軍の後継者が確定しない時期に、実朝を失う事は大変危険な立場に立つことになるので敢えてこの策は取らないはずである。
条義時・法華堂北跡  大蔵御所付近 (鎌倉市・雪ノ下)
義時・法華堂跡
北条政子墓 (鎌倉・安養院)  (鎌倉・大町)
北条政子・墓
三浦氏居城址 (横須賀市・衣笠)
衣笠城址

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令和元年乙亥・甲午・丁巳
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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