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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.05.25(14:58) 229

◆◆祝・令和元年・・・・・・・

**三浦一族

**三浦氏再興は(続)

    実朝暗殺事件の首謀者としての、第二に考えられているのは、三浦義村である。
 三浦義村首謀説によれば、義村は最初義時を殺害しようとしたが、これが成功しないとみるや、実行を唆した公暁(kugiyou)を裏切って、義時に通報した後、実朝を暗殺した公暁を討って手柄としたという。  それは、幕閣№2の義村が、義時を殺害し、その地位に代わろうとしての謀殺未遂事件であるとしている。

    実朝が討たれ、義時の暗殺が未遂に終わってから五年後の元仁元年(1224)、義時は急死した。 世情には、義時の正室伊賀局による毒殺の噂が流れた。   そして次期執権には、尼将軍政子らによって擁立された嫡子泰時(yasutoki)であった。 その他に候補者として三浦義村を挙げたものは、当然ながら皆無であっつた。
  それは御外戚たる北条氏と他の御家人たちの間には、歴然たる階級差のようなものが存在していたからである。  そのとき、伊賀局が生んだ政村(masamura)、伊賀一族などの支持を受けて対立候補として挙げられた。  政村の背後には、烏帽子親である三浦義村がいると噂され、義時が卒去した翌日には義村宅へ、伊賀局の兄弟である伊賀光宗(mitumune)及び朝行(tomoyuki)などがしばしば参集したという。

   伊賀兄弟は、執権が泰時(yasutoki)に決まりつつあるのを憤り、伊賀局の婿である一条實雅(sanemasa)を将軍に立て、また子息の政村(masamura)を執権としての擁立を企てた。  謀議の風潮は泰時に伝えられたが、取り合わなかったという。
  数日後、北条政子は密かに三浦義村宅を訪ね、義村は恐縮して出迎え、二位(政子)の詰問を受けた。 「何か世の中が騒がしい、政村並びに伊賀光宗等が頻りに、義村邸に出入りし、密談との風聞がある。これは何事であるか、納得のいかないところである。 これは泰時に対して謀反の志があるのか否かお尋ねしたい」・・・・。  対し義村は困惑し、返答できなかった。

   さらに政子は、去る承久の乱に関東が勝利した事は、天命であるが、なかば泰時の功績である。  執権義時が幾たびかの戦火をかい潜って、世の中を平定したが、その義時の跡を継いで幕府の棟梁たるべきものは泰時である。  泰時、政村の両人が平和であることが一番望ましい・・・・・。  
  事件の後、伊賀局と婿の一条實政及び伊賀兄弟は流刑に処せられたが、政村や三浦義村には咎めは無かった。

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