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頼朝後の三浦氏

2016.12.27(07:27) 23

**再興と没落

*承久の乱

承久三年五月、 討幕の決意を固めた後鳥羽上皇は「北条義時・追討宣旨」を五幾七道に発し、軍の招集を命じた。  その中には三浦義村の弟で在京中の胤義(taneyosi)も加わっていた。 鎌倉では政子が御家人らを集め、安達景盛を介して下知を伝えた。 詳細は次の機会に。
要するに頼朝以来の源家の恩を忘れるなに尽きるが、「逆臣」と名指しされた三浦胤義の兄義村の心境は計り知れない・・・・・・。この後義時館で久方ぶりに軍評定が開かれた。
参会者は時房・泰時・広元・義村・景盛であった。 議論の大勢は足柄・箱根の二関を固め上皇軍を迎撃すっると云う意見であったが、広元が幕府軍の上洛を主張して譲らず、義時は両案を尼将軍・政子の許に提示し、結局政子の裁定で上洛案が採用された。
戦いは幕府軍の勝利で終わり、上洛軍司令官を務めた時房と泰時は六波羅館に入って戦後処理を行った。   間もなく義時の指示を携えた使者が到着し、早々に六波羅の両者に加え三浦義村・毛利季光(suemitu)(広元の子)の四者会談が行われている。
上皇方に対する断罪は極めて厳しく、後鳥羽・順徳・土御門三上皇の配流、近臣の斬首・配流等が決定された。  近臣の中には西面の武士に登用されていた鎌倉御家人も多く含まれていた。
そして、幕府は政子・義時・広元の指揮の下で危機を克服し、かえって幕府の存在を確固とすることに成功した。  そしてこの承久の乱は、幕府体制のなかでの三浦氏の位置にも変化をもたらした。   三浦一族の中で義村の弟胤義が上皇方についてしまい、東寺に立籠った胤義を三浦・佐原の兵が攻撃するという一族同士討ちと云う事態を招いてしまったが、政子らの義村に対する評価はそれで減ずることなく、むしろ義時館における群議や六波羅館の評議に義村を列席させるというように、この戦いを契機に三浦氏の力を重視する気配が生じた。 その気配が警戒の念を含んだものであるとしても、三浦氏にとっては幕府における宿老の地位への復活の兆しが見えてきたことを意味する。

*執権泰時と評定衆義村

承久の乱に勝利した幕府の全国支配は揺るぎないものとなり、政治を主導する政子・義時・広元の協調体制は盤石の重みを持つ様になったが、それも長くは続かなかった。  まず元仁元年(1224)、6月に義時が病の為62歳で死去した。  政子は直ちに泰時と時房を京都から呼び戻している。
尼将軍・政子は二人に「軍営の後見を成し、武家の事を施行すべし」と申し渡し、それまで行っていた政治への関与をやめて泰時と時房に一任することを宣言したことになる。  しかし、政子は「尼将軍」としての役割を止めるわけにはいかなかった、義時の死後彼の後妻である伊賀氏(igasi)が兄弟らと計らって、女婿一条(藤原)實雅(sanemasa)を将軍にたて、自分の子(政村)を執権に立てようと謀議を進めていた、どうもこの謀議に政村の烏帽子親の義村が加わっていたらしい・・・・・。  この事態を打開する為、政子は自ら義村邸に赴き、いまや泰時こそ「関東棟梁」に相応しい人物であることを力説、政村を諌めてほしいと申し入れたのである。  政子の迫力に圧倒されたかのように、義村は泰時擁立を約束したようだ。
第三代執権・北条泰時公菩提寺・・・粟舟山・常楽寺山門  (鎌倉市・大船)
常楽寺・山門
こうして政子の確固たる措置により、伊賀氏兄弟の策謀は失敗に終わり、義村以下の宿老も泰時に忠誠を誓うという事で、執権・泰時の地位は安泰であったが、翌年6月に広元が7月に政子が死去するという自体に動揺し、幕府(執権)政治を主導してきた義時の死と共に大きな衝撃であったに違いない。  もちろん幕府関係者の間にも動揺は広がったと思われるが、しかし、ここで後世優れた政治家と評される(以前にも記述)泰時の手腕が遺憾なく発揮されることになる。
執権泰時の施策の原点は、頼家の代の初めに設けられた13人の「談合」衆による合議態勢への復帰であろう、彼の最も重要な施策は「評定衆」による政務処理である。  その最初のメンバーは・・・・・。

〇 中原師員(morokazu) (吏僚)
〇 三浦義村        (宿老)
〇 二階堂行村(yukimura) (吏僚)
〇 中条家長(ienaga)   (宿老)
〇 三善康俊(yasutosi) (吏僚)
〇 二階堂行盛(yukimori)(吏僚)
〇 矢野倫重(mitisige)  (吏僚)
〇 後藤基綱〈mototuna) (御家人)
〇 三善康連(yasutura)  (吏僚)
〇 佐藤業時〈naritoki〉  (吏僚)
〇 斎藤長定(nagasada) (御家人)    以上11名


こうしてみると、あの「十三人会議」体制とは随分違っている。例えばメンバーの中に北条一族は誰も入っていないし、宿老はわずか二人、御家人二人を加えても武士は4人にすぎず残りの七名は政所や問注所の幹部である。  評定衆の権限は単なる「談合」ではなく、政務に関する裁断権を持ったこと、従って真の意味で合議が制度化したことになる。 また北条一族は泰時が執権、時房が連署として、評定衆を指導する立場に付いたのであって、いわゆる執権政治はこれで確立したと言われる。
新執権・北条泰時公墓誌・・・・・臨済宗建長寺派・常楽寺  (鎌倉市・大船)
泰時公‣墓石

新執権・北条泰時は宿老の地位を復活させ、とりわけ三浦義村を重用しようとしたと考えられるのである。彼の宿老義村重視の姿勢は、彼の妻が義村の娘であったつながりも大きいが、頼朝時代の宿老義澄(義村・父)の働きぶりと、義村が三浦介として相模を実質支配していることを十分に理解していたからであろう。  そして、まさしく椀飯の地位も上がったと「吾妻鑑」に記述が残る。

貞永元年(1232)八月、執権・北条泰時は武士のための法典である「御成敗式目」を制定した。
三浦義村は「御成敗式目」の制定に際して評定衆次席として起請文に署判。  義村は泰時の執権在任中は常に評定衆としては中原師員に次ぐ位置を占め、泰時と時房が出席するような重要な会議には必ず参加していたようだ。
しかるに義村は宿老としての重みが増すにつれて、幕府政治運営の責任の一端担う評定衆らしからぬ態度をとるようになる。自分の息子たち(泰村(yasumura)・家村(iemura)・資村(sukemura)・胤村(tanemua))の行動にも目に余るものが目立ち、「吾妻鑑」もやや厳しく、「傍若無人の沙汰人耳目を驚かす」とのべている。  今ひとつは、この時期の三浦一族が、将軍頼経に接近して近臣御家人として重用されるようになった事も背景にあると思われるが、このことが結局幕府内での三浦氏の孤立と惣領家の没落を招く原因となったのであろう。・・・              次回に続く

丙申・辛丑・癸未
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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