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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.06.05(07:00) 231

**三浦一族

**三浦氏再興は(続)

   元仁元年(1224)、北条義時が卒去している。 承久の乱より僅か三年後であり、また、実朝暗殺事件から数えても、五年しか経っていなかった。
  義時は、日頃病にかかった事は無かったが、六月十二日に突然病を発し、十三日に臨終が近づき、午前十時ごろ卒去した。六十二歳であった。 日頃は脚気を患っていたが、この日は激しい嘔吐と下痢を併発していた。 鎌倉府内には、義時の死は毒殺であるとの噂が流れた。

  義時の死因が毒殺であったかどうかは、正確には判らない。しかし、これらの連続した事件の推移を見てみると、毒殺説にはかなりの蓋然性がありそうである。・・・・レポータも肯定する。   さらに「伊賀の変」と呼ばれるこの事件には後日談がある。  この事件に関与したとみられていた北条政村(masamura)と三浦義村には、なんのお咎めが無かった事。そして、義時の正室伊賀局はその後どうなったかよくわかっていないが、同じ流罪になった伊賀光宗(mitumune)は後に許され、評定衆の一員に任じられている。

   京都の貴族達の眼には、和田氏滅亡後に、北条氏と対抗しうる豪族は、三浦氏以外にないと映っていた。実朝の暗殺される前に三浦義村は駿河守に就任していた。
  京都の貴族にとって、官位をもって武人を懐柔するのは常套手段であり、当時としては源氏一門や御外戚たる北条氏以外の御家人階級に、国司の長たる「守」を許す事は稀有の事であった。  この時期に義村を叙任したのは、三浦氏を抱き込み幕府を自壊させるための陽動作戦のにおいがする。 さらに義村の弟、胤義(taneyosi)が和田合戦後の論功行賞に不満を持っていて、新任地の京都で貴族たちと接触し、反北条の策謀に加わるなどしていた。
  承久の乱の折に、胤義は言った。  「天皇の仰せに日本国の武士が何で叛くでありましょう。特に兄の三浦義村は総追捕使にしてやると言えば、必ずお味方に参るに違いありません」     三浦義村の妻は、公暁の乳母でもあった。そして、義村の息子、駒若丸は公暁の門弟でもあった。

    1219年の実朝暗殺のとき、公暁の背後に京都の謀略者が存在した居たならば、その策士は公暁を兼ねてから懇意の三浦義村の許に走らせ、北条・三浦を相戦わせて、幕府の自壊を画策したとしても不思議ではない。
  それ以前に、弟、胤義(taneyosi)から義村への誘いはあった筈である。  しかし、義村は心を動かさず、公暁からの連絡をすべて北条義時に伝え、その命を受けて、長尾定景(sadakage)に公暁を討ち取らせた。
  

*長尾定景・・・・鎌倉権五郎景正を祖とする鎌倉党。 三浦氏に仕え家臣となったが宝治合戦で滅亡。 その後生き残った一族が上杉氏に仕え、上杉謙信はその内の越後上杉氏から出た武将。

   二年後の承久の乱でも、後鳥羽上皇側は、北条義時追討の宣旨を関東の有力豪族に発し、「宣旨に従えば恩賞は思いのまま」との添え書きを付している。  京都側の三浦義村に対する期待は大きかったようだ。
  しかし、胤義(taneyosi)から密書を受け取った義村は実朝事件同様に幕府に通報、京都への軍勢派遣のきっかけとなった。 義村は、幕府が自滅する同士討ちという愚かな道を選択しなかったのである。  
長尾定景一族供養塔  (鎌倉市大船・久成寺)  上杉謙信公祖
長尾定景一族
長尾一族・館跡  (横浜市栄区・長尾台)
長尾砦2
戦国時代・長尾一族の館は後北条氏の玉縄城の一廓となり大船観音のある処と共に砦となっていた(大船駅付近)
観音寺

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令和元年乙亥・辛未・癸酉
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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