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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.06.10(15:00) 232

**三浦一族

**三浦氏再興は(続)

    嘉禄元年(1225)6月に大江広元、7月に北条政子が死去し、前年に死去した北条義時とあわせ、頼朝亡き後の幕府政治(執権政治)を主導してきた三人が相次いで世を去ってしまったのである。  
  執権になったばかりの北条泰時(yasutoki)にとって、それは大きな衝撃であったに違いないし、幕府関係者の間にも動揺が広がったと思われる。 しかしここで後世優れた政治家と評される泰時の手腕が遺憾なく発揮されることになった。

   執権泰時の施策の原点は、頼家の代の初めに設けられた13人の「談合」衆による合議態勢への復帰であり、伯母・北条政子の論理である頼朝時代(北条はミウチ)への回帰を体制化しようとするものであり、 かれの最も重要な施策は、評定衆による政務処理であった。
  その評定衆のメンバーを参考のために記しておく

〇 中原師員(morokazu) (吏僚)
〇 三浦義村        (宿老)
〇 二階堂行村       (吏僚)
〇 中条家長        (宿老
〇 三善康俊        (吏僚)
〇 二階堂行盛      (吏僚)
〇 矢野倫重(mitisige)  (吏僚)
〇 後藤基綱(mototuna)(御家人)
〇 太田康連(yasutura) (吏僚)
〇 佐藤業時(naritoki)  (吏僚)
〇 斎藤長定(nagasada)(御家人)


以上11人の構成であるが、印象としては、解るように、あの「十三人合議」体制とは随分違っている。
  例えばメンバーの中に北条一族は一人も入っていないし、宿老は僅か二人、御家人二人を加えても武士は四人にすぎず、残りの七名は政所や問注所の幹部である。
  そして「十三人合議」体制との大きな違いは、評定衆の権限は単なる「談合」ではなく、政務に関する裁断権を持った事、従って真の意味で合議が制度化した事であり、また北条一族は泰時が執権、時房が連署(rensixyo)として、合議体である評定衆を指導する立場に付いたのであって、いわゆる執権政治はここに確立した事になる。

   こうした評定衆設置を見ると、執権泰時はかつての頼朝のように・・・、その後の政子のように宿老の地位を復活させ、とりわけ義村を宿老として重用しようとしたと考えられるのである。 彼の宿老義村重視の姿勢は、彼の最初の妻が義村の娘であったという繋がりによるところも大きいであろうが、泰時が頼朝時代の宿老義澄(yosizumi)の働きぶりと、義村が三浦介として相模を実質支配していることを十分に理解していたからであろう。  そして宿老義村の幕府に於ける地位の上昇を端的に示す例がある。

    それは、嘉禄二年、安貞元年正月にそれぞれ椀飯(oubann)を奉仕した事で、前者は一日が泰時、二日が弟朝時(tomotoki)、三日に義村、後者は一日に泰時、二日に時房、そして三日に義村と、いずれの場合も北条氏の次位という事になるが、宿老としての義村の株が挙がったことを表している。   ちなみにこれ以前にも義村をはじめ三浦一族が椀飯奉仕に加わる例はあったのだが、何れも北条一族が主役で、義村らは脇役(剣や調度の貢進役人)に過ぎなかったのである。
 しかし、強大な権力を握った執権泰時の下で、宿老義村はいかなる動きを見せたのであろうか。評定衆としての働きぶりは次回で・・・・・・。
義村父・三浦義澄公墓所   (横須賀市・衣笠)
三浦義澄公・墓所
鎌倉幕府・執権邸跡・・現宝戒寺  (鎌倉市・雪ノ下) 
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一の鳥居付近より八幡宮を望む
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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