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もののふ(兵)ノ家・三浦氏

2019.06.20(07:00) 234

**三浦一族

**三浦氏再興は(続)

    三浦惣領家の孤立とは、三浦介として相模国に君臨していた状況の崩壊、つまり相模国の一般武士が三浦介の差配にもはや従わなくなったことをも意味するのであって、現に宝治合戦初期に時頼亭の四面を警固した武士の中で、相模国の武士が警固したとある。
  宝治合戦(三浦氏の乱)自体については、三浦氏の追い落としを狙った時頼が、外家である安達景盛(kagemori)・義景(yosikage)親子と仕組んで起こし、泰村側も孤立したとはいえ、一族・親類を結集して奮戦したもののついに敗れ去った事件という見方を取るのであるが、問題はこの時点で何故時頼は三浦氏の追い落としを図ったのであろうか・・・・。
  時頼の狙いの一つは、やはり宿老三浦氏そのものの排除にあった事は疑がいない。  開幕以来三浦氏は宿老筆頭として並み居る御家人に対する影響力は大きかったし、何よりも宿老という地位は鎌倉殿(将軍)を支える事を期待され、現に泰村の父義村は将軍頼経に対し宿老として奉仕しており、泰村の弟光村(mitumura)も頼経とは幼いころから「昵近」の仲であったので、泰村自身もいつ何時将軍と組んで北条氏の築いた足場を危うくするとも限らなかったのである。

   さらに、時頼のもう一つの狙いはおそらく相模国を実質支配する三浦介の地位と権限を奪い、同国を武蔵国と並んで北条得宗家の地域支配の基盤にと考えたのではなかろうか。  宝治合戦の後に、時頼は相模守になるが、それ以降相模国は「相州御分国」と呼ばれるが、もともと将軍知行国(関東御分国)の一つであり、北条得宗家はそれを簒奪した事にもなるのであって、この点からも、いよいよ得宗専制といわれる体制が固まりつつあったことが指摘できる。

   三浦介の名称は、宝治合戦で時頼に味方した佐原盛時(moritoki)(三浦氏傍系)が継承したようだが、その後の盛時の行動は「吾妻鑑」を見る限り、将軍や北条一族に対する供奉などの奉仕ばかりで、三浦介としての権限は手にしていなかったと思われる。
  宝治合戦のあと三浦氏は相模守護の地位を失い、以後この国には守護は置かれずに、政所と侍所が権限を分掌したものと思われる。

    かくして幕府の宿老筆頭三浦惣領家は滅亡した。   それは頼朝以来の宿老体制(合議制)の解体又は変容をも意味しているのであり、幕府政治は最終段階の得宗専制体制へと移るのであった。  
  三浦氏の名跡はは傍系の佐原氏が引き継ぎその家系が生き残ったのである。 
源頼朝・法華堂跡   (鎌倉・雪ノ下)  
    宝治合戦で敗れた三浦氏一族500人がこの法華堂で自害した
頼朝・法華堂
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義時・法華堂跡



令和元年乙亥・辛未・戊子
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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