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剛勇・武略  畠山重忠

2019.06.25(07:00) 235

 ◆◆・・・新連載

**畠山一族

**石橋山合戦~

    畠山重忠は(1164)に生まれた。  討ち死にした(1205)に42歳という記録から計算している。  父は畠山重能(sigeyosi)であり、母は三浦介義明(yosiaki)の娘であった。

    治承四年(1180)5月、源頼政(yorimasa)の挙兵があり、平家は都を福原に移した。  この7月に畠山重能は弟の小山田有能と共に京都番役番の為に上京している。 「吾妻鑑」によると6月末に三浦義澄(yosizumi)と千葉胤頼(taneyori)が番役を済ませて京都から帰っているので、番役の交代があったと思われる。

   この時点で畠山重忠は弱冠17歳の青年で、源氏の恩恵を身をもって感じてはいなかった思われる。 ともかく「吾妻鑑」では、平氏の重恩に報いんがために、三浦氏を攻めたと言っている。
  石橋山の合戦で(治承四年)大庭景親(kagetika)属した人々は、熊谷直実(naozane)以外は相模の住人であった。  もちろん畠山重忠その他武蔵の住人にも動員令をかけているが、これは合戦に間に合わなかったらしい・・・・。

    景親は在京中から頼朝が挙兵するという情報を得ていたのに、少し油断したらしい。  しかし、8月十七日の夜中に伊豆の山木館が襲撃され山木兼隆(kanetaka)が死亡した事は十八日中には知ったであろう。  事は意外に早く進行したのである。 十八日の夜早馬が飛んだとして、大庭(藤沢)から畠山まで直線距離にして100㌔、十九日午前には重忠の所に到着したと思われる。
  重忠としては直ちに家に子・郎党を招集して出発したとしても、戦の進軍であるから、丸三日は掛かったであろう。  二十三日夜に今の平塚・花水川に陣を敷いたと記録に残る。    (源平盛衰記)

   一方、三浦の一族は頼朝に味方する為、二十二日に三浦を出発し、今の小田原・酒匂川に至るまで60㌔に二日間も掛っている。  合戦は二十三日、一日で片付き、あとは掃討戦となっていたから、三浦は間に合わず、引き返したが、途中、鎌倉の由比ヶ浜で、重忠と遭遇、  三浦は小坪の峠に三百騎、畠山は稲瀬川の辺りに五百騎で対陣したという。 (源平盛衰記)
  この一戦では双方にかなりの損害を出し、三浦勢が本拠の衣笠城に向け引き上げるのを重忠は追跡している。 道筋は小坪を超え、逗子に出、鐙摺(abuzuri)から葉山に入り、木古庭(kikoba)を通っていったと思われる。  二十六日の朝には、衣笠城で攻防戦が始まっている。  この時重忠は同族の河越重頼(sigeyori)や江戸重長(sigenaga)らに加勢を頼んでいるが、これらの武士が戦場に間に合ったのは、大庭の動員に応じていたからに相違ない。

   衣笠城は一日持たず落城寸前となり、三浦義澄以下は安房に落ちようとするが、老齢の義明(yosiaki)は、「今源氏再興の時に会い、喜びにたえない。」という言葉を残し、子孫の勲功を願い義澄以下を落として奮闘の上戦死した。

  石橋山の合戦に敗れた頼朝は、東京湾を安房に逃れ上総・下総を通って、一ヵ月の後には二万七千余騎を率いて武蔵の国の攻略に取り掛った。  まず、秩父の家督と言われた河越重頼(sigeyori)を差し置き、江戸重長(sigenaga)に呼びかけて、武蔵の棟梁と言い、一族を率いて帰順せよと勧告した。  重頼に対しては一種のパージをしたつもりであろう。
   重長は暫く形勢を観望していたので、頼朝はおびき出す作戦等を試みたが、 十月二日になって、いよいよ武蔵に乗り込み、豊島清元(kiyomoto)・葛西清重(kiyosige)らが帰伏するに及んで、四日、長井の渡しで、畠山重忠・河越重頼・江戸重長がそろって頼朝に帰伏する。  実はこれが頼朝にとっても、重忠たちにとっても切羽詰まった節目であった。
  頼朝の側では、この三人が、石橋山で平家方になっていたばかりでなく、三浦義明を討ち取ったもので、三浦一族の仇でもある。しかし、平維盛(koremori)らが東国に進発するという情勢の中で、こうした勢力を敵に回しては、ここまで延びてきた勢力に頓挫をきたす。  功ある三浦氏を強いて我慢させても、味方にしたいところである。
   一方、重忠にしてみれば、平家側の武将としては最初の帰伏で、どにょうに扱われるか判らない。さらに三浦一族には恨まれる事は必至で、そうかといって戦っても到底勝てる状況になかった。  そのような相手が帰順を呼びかけてきているのである。しかし、迷った重忠は一族に相談したと言う・・・・・・・・。

畠山重忠邸跡・・・八幡宮東門~筋替橋付近   (鎌倉・雪ノ下)
畠山重忠
衣笠城祉   (横須賀市・衣笠)
衣笠城址本丸跡
衣笠城にて戦死・三浦大助義明公菩提寺・滿昌寺   (横須賀市・衣笠)
三浦義明公・菩提寺

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