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剛勇・武略 畠山重保

2019.07.05(07:00) 237

**畠山一族

**石橋山合戦~

    「源平盛衰記」 にはこの事情を説明して、もと鎌倉での評定では、梶原景時は義経の軍の侍大将、土肥実平は範頼の軍の侍大将と定められたが、実平は範頼を捨てて義経につき、景時は義経を離れて、500騎を引き連れ範頼についたとされる。
  そして、重忠は宇治川の合戦で義経に属したが、京都では範頼についている。  今度、一の谷に進軍するについて、範頼から分かれ、500騎でまた義経に属したと記されている。
 「吾妻鑑」は京都での軍勢の手配を材料とし、、「平家物語」はそれ以外の史料に拠ったのであろうか・・・・・。このころの軍勢の交名には両者の間に出入りが多いところに「源平盛衰記」が気が付いて、説明したものと考えている。
  
   一の谷の合戦については、ここでは省略する、畠山重保が活躍した記録が無いのである。  一の谷と言えば「ひよどりごえの逆落とし」という逸話が、重忠の代表的逸話となっているが・・・・・・・、重忠はたしかに、一の谷の手前の三草山の合戦までは義経の指揮下にあったが、この時点で軍は二手に分けられ、本隊は義経が、搦手の大将軍に安田義定(甲斐源氏)に預けられた。 重忠はここで義定の指揮下に入り、一の谷の西の手攻撃に向かっているので、ひよどりごえに向かった別働隊にはいなかったことになる。 ここにアリバイが成立する。 従って、ひよどりごえで、馬を背負って崖を降りる事など出来ないのである。 

   一の谷の合戦に大勝した範頼(noriyori)・義経(yositune)は、京都に凱旋したが、 頼朝は山陽道に土肥実平(sanehira)らを遣わして軍政を掌らせ、義経を京都に残し、一旦は平家追討の大将軍とした。  一方、範頼はじめ諸将士の多くは関東に帰還、梶原景時が平重衡(sigehira)を護送して関東に凱旋している。   

   頼朝は平治の乱の後、自分の助命に尽くしてくれた池ノ禅尼(zennni)の子、平頼盛(yorimori)の所領を安堵させ、鎌倉に招待し歓待した。  頼盛帰洛の餞別の宴に、小山朝政・三浦義澄・畠山重忠等が参列したとある。    (平家物語)

   文治元年(1185)3月、壇ノ浦の合戦で平氏は滅亡する。 そして御家人たちが四月の中ごろまでには鎌倉に凱旋している。
ところが、関東の御家人のなかに、頼朝の推挙を受けずに兵衛尉(hiyouejiyou)等に任官した者たち二十三人が、墨俣(sunomata)以東に入る事を禁じている。  その中には、義経の郎党の佐藤忠信もあり、後藤基清・梶原朝景・平山季重・八田友家・小山朝政などもみえ、口汚く罵倒されている。

  しかし、これらの人は大部分がすぐに許されたらしく、この後鎌倉に帰還し、頼朝に仕えている記事が見えている。 だが、義経は許されず、二人の仲は険悪な状況になる一方で、義経もまた院に申し出て、頼朝追討の院宣を受けたのである。

   同年10月頼朝の父義朝の首を葬って、その菩提を弔うために建立された南御堂・勝長寿院の開堂供養が行われ、畠山重忠は先の隋兵の筆頭に列している。  供養の後、頼朝は侍所別当、和田義盛と所司の梶原景時を召し、義経討伐軍の選抜を命じている。
  この時の先陣は土肥実平、後陣は千葉常胤と決したが、重忠の名は無い。
鎌倉・紫陽花・・・・・長谷寺 (六月十日)
長谷寺紫陽花
鶴岡八幡宮一の鳥居・・・・・
一の鳥居
大御堂・勝長寿院跡石塔
勝長寿院石塔

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令和元年乙亥・壬申・癸卯   
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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