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剛勇・武略 畠山重忠

2019.07.10(07:00) 238

**畠山一族

**静御前

   文治二年(1186)3月、頼朝は義経の行方を尋問する為に、静御前を鎌倉に呼び寄せた。 鎌倉での尋問に対する静の返答は京都での供述と大分違ったようで、厳重に取り調べられたらしいが、静は義経と別れる処までの供述に終始したらしい・・・・。
  尋問の結果は不問となったらしいが、静は白拍子として天下のの名人と言われていたので、頼朝や政子はその舞を是非見たいと言ったが、静は病気だと称して応じなかったという。   
  じつのところ、義経の妾としての自分が、その様な事をするのは恥辱であるといって、しぶっていたのである。 しかし、政子が静はたまたま鎌倉に来ていて、近く帰京するので、その舞を見ないのは残念だ、是非見たいと頻りに頼朝にねだったという・・・・・・。 
  頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参詣する日を選んで静を回廊に召し出し、これは自分たちが見るのではなく、八幡大菩薩に奉納するという名目で舞ったのである。 伴奏の鼓は、京都に長く滞在し歌曲に堪能であった工藤祐経(suketune)がうち、畠山重忠は銅拍子をうった。
  京都で一流とされる静の伴奏を務めたという事は、重忠の音楽的才能が鎌倉で高く評価されたという事になる。 ともかく重忠が、歌舞のの点で頼朝のお気に入りであったと思われる。

**梶原景時の讒言

   「吾妻鑑」、文治元年(1185)4月の記事、和田義盛が侍所の別当で梶原景時は同所司である所から。 御家人統制の担当者であって、軍時には戦目付として、平時にも御家人の非違を糺弾する職にあったとして良い。  従って義経の事をとやかく頼朝に報告したのも、また、壇ノ浦で夜須行宗の功名についてかれこれ言ったのも、その職務を実行したものと考えられる。
  それは、必ずしも従来言われる程の悪人ではなかったのではないかと思う。 景時は石橋山の合戦では箱根山中で頼朝に有情のおもんばかりがあったと思われ、鎌倉にて始めて頼朝に見参した時、文筆に頼らず、言語に巧みな士であって、初対面で頼朝に気に入られたという。 

   そして頼朝の寵をよい事に、少々傲慢であった事は確かだったらしいが、また俊敏な人であって、頼朝の心底に潜めた願望、それは頼朝自身が意識していない様な願望を抉り出し、その意を迎える様な言動をしたと考えられる。 
  というのは、沼田の御厨事件に際しての重忠に対する処分であって、重忠に対する頼朝の気持ちは複雑なものがあった思われる。 一面では確かに頼朝は重忠を信用していた。しかし、頼朝が最も不安定な時期、三浦を脱出した時というよりも、むしろ千葉常胤が味方に付き、安心してから鎌倉に入るまでの時期であると思うが、この時期に素直に頼朝に従軍しなかった者に対する頼朝の不信感は、長くに渡ってあったのではなかろうか。 これに相当する主な者は上総介広常・江戸重長・河越重頼・畠山重忠である。   
  江戸重長は頼朝より呼びかけた者で、実際には秩父の庶流で、後に活躍した様子もなく、問題にされなかったようだ。 だが上総介広常は、寿永二年に頼朝は梶原景時に命じ、朝夷奈切通付近でだまし討ちされている。  
  広常は頼朝の政策に対し、考え方の違いをストレートに進言したらしい・・・・、朝廷に対しても、軽視した態度を示し、頼朝は彼を安心の出来ない者であると思って殺害した事は明らかであろう。
鎌倉の風景  三題・・・・妙本寺・日連上人
日蓮上人凌霄花
半夏生・鎌倉中央公園 
2019半夏生
妙本寺・二天門
凌霄花妙本寺

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