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剛勇・武略 畠山重忠

2019.07.15(07:00) 239

**畠山一族

**奥州征伐

   文治四年(1188)4月、義経追討の宣旨と院の下文(kudasibun)を奥州に届ける使者が鎌倉を通過した。 奥州では義経をかばっていた藤原秀衡(hidehira)は前年に亡くなっており、あとは泰衡(yasuhira)がついでいた。
  この使者の接待が、稲毛重成(sigenari)・重忠・江戸重長(sigenaga)らに命ぜられている。

 奥州では泰衡が兵数100騎を率いて衣河の館に義経を襲い、合戦の後に自殺に追い込んでいる。 その首は酒に浸され鎌倉に届けられたという。 しかし、頼朝は泰衡が今まで義経を匿っていた事を責めて、これを征伐する事を朝廷に奏請したが、追討の宣旨が延び延びとなっていた。  しびれを切らした頼朝は軍議を急がせ、三手に分かれて進発することが決定した。
  頼朝自ら大手の大将軍となり、その先鋒を畠山重忠に命じたのであった。

   先陣を賜った重忠は、まず軍夫八十人を先頭にすすめた。  そのうちの五十人は、めいめいに雨皮に包んだ征箭(soya)を携え残りの三十人には鋤や鍬を持たせた。 さらに乗馬の予備として引馬三頭を準備、続いて重忠、その後に従軍五騎は、弟の長野三郎重清(sigekiyo)、烏帽子子の大串小次郎重親(sigetika)、郎党の本田四朗近常、乳母子の榛沢六郎成清、柏原太郎の五人であった。 

*征箭・・・・戦闘用の矢(突き矢)  

   頼朝の従えた軍勢は一千騎で、平賀義信(yosinobu)・安田義定(yosisada)・蒲範頼(noriyori)以下一門諸大名らが一斉に出陣したのである。   道筋は下野・宇都宮・新渡戸駅を通過、白川の駅を超え、陸奥の国伊達郡国見駅に着き、八月の八日に攻撃を始める事が決定された。 
  泰衡はここに前衛としての城壁を築き、幅五丈の堀を掘って阿武隈の流れをせきいれ、異母兄西木戸太郎国衛を大将軍とし、二万騎の軍勢で守りを固めていた。  

   そこで重忠は引き連れてきた八十人の軍夫に用意の鋤や鍬を使って土や石を運ばせ、堀を埋め、攻撃路を確保したようだ。工兵を使う事は当時としては珍しく、その情報収集能力と行動力を兼ね備えた重忠の先鋒としての力量を頼朝はすでに見抜いていたのかも知れない、そしてこの場面での抜擢となったと思われる・・・・。 

   九月になって、奥州二国の平定が完了し、頼朝は論功行賞を行い、多くの御家人たちが新恩に浴したが、先鋒として活躍した重忠は葛岡郡の惣領地頭職に補任された。  この郡は狭いところであったが、重忠の不満は聞こえてこなかった。
源義経公・首洗い井戸・・・・鎌倉に送られた義経の首はこの地に葬られた。
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義経公首塚碑・・・・・藤沢市・白旗神社付近
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義経公を祀る白旗神社境内・・・「義経藤棚」
白旗神社・義経フジ

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令和元年乙亥・壬申・癸丑
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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