FC2ブログ

タイトル画像

頼朝後の三浦氏

2016.12.30(19:59) 24

**再興と没落

*将軍頼経と宿老義村

嘉禄二年(1226)1月、三寅改め頼綱は将軍宣下を受けた。  鎌倉幕府第四代将軍の誕生である。    頼経は種軍宣下を待っていたかのように、北条氏に距離を置き、三浦氏への接近を始める・・・・・いくら将軍といえ、まだ八歳の子供である、自分の意思であるわけはない、おそらく三浦氏からの働きかけによるものであろう、三浦氏のこうした行動を黙認してきたのも宿老筆頭と云うこともあって、執権泰時も一応三浦氏を重んずるという方針を換えなかった事もある。
前年に続き義村は正月三日目の「椀飯」沙汰役を務めた事が将軍頼経との距離を接近させたようだ。  その後何かにつけ外出の機会があれば帰りは三浦の館への立ち寄りを望んだという。
頼経が御所の馬場殿に出て流鏑馬(yabusame)や遠笠懸(toukasakake)を見物した際に、頼経の所望で義村や武藤資頼(sukeyori)ら「宿老」が射芸を披露し、座興を盛り上げたようだ。  この席には執権泰時の姿もあったようだが、「宿老の類」も加わっての射的の儀が行われた。 宿老の中に義村の子泰村(yasumura)の名も見える。
この様な例は、宿老がもはや幕政から遠ざけられ(義村・泰村父子は評定衆である)将軍や執権に対する奉仕を勤める役割のみを担ったことを意味し、幕府体制の変化の一面を見ることが出来る。
鎌倉幕府執権邸跡・・・現宝戒寺 (鎌倉市・小町)
宝戒寺

このように義村の頃までは、三浦介の地位と権限は、やや規制を受けながらもほぼ安泰と云えるものであるが、次の泰村の代になると三浦惣領家存立の基盤である三浦介をはじめ、宿老・評定衆という地位が危うくなるのである。

*宝治合戦

延応元年(1239)12月、宿老・三浦義村が死去した。  享年は不明であるが、源平内乱の頃からその名が現れるので70歳は超えていたであろう。  (吾妻鑑)
執権・北条泰時自ら弔問に訪れたことと、将軍頼経が使者を送ったことも記している。
義村の死は三浦一族の歴史にも、また鎌倉幕府政治にとっても一つの変画が予想される。  義村の後を継いだ次男の泰村は、父の死の前年に評定衆に加えられており、すでに幕府内で重きをなしつつあったが、重要な群議には呼ばれなかった代わりに、泰時邸で開かれた酒宴には、他の評定衆幹部を差し置いて招かれるなど、その活動または北条氏との関係は不安定なものがあった。

執権泰時が在位十九年の仁治三年(1242)、60歳で死去。 孫の経時(tunetoki)が第四代執権に就任したが、泰村は変わりなく評定衆を勤めていたが、このころから評定衆による評議の在り方ににも変化が見え、評定衆の下にいる奉行人の「内評定」で案件処理を行う傾向が出てきている。 すなわち幕府の合議体勢が一層得宗主催の「寄合」へと進みつつあることがみられる。 したがって評定衆とはいえ、泰村の幕府内の位置はますます不安定になってしまった。
寛元四年(1246)3月執権経時が突然執権の座を弟の時頼(tokiyori)に譲り、同年4月に33歳の若さで死去してしまった。時期を同じくして将軍頼経と結託した北条一族の名越光時(nagoe・mitutoki)が、時頼打倒の行動を起そうとしたが、事前に時頼側に察知され反乱は成功しなかった。 光時は越後守を罷免された上伊豆配流が決定し、将軍経時も京都へ強制送還された。
この事件を通して三浦一族は、泰村の弟で前将軍の寵臣であった光村(mitumura)が深くかかわっていたが、光村自身もまた泰村ら兄弟にも何の咎めもなく、時頼邸における「神秘沙汰」に泰村も加わっている。

*神秘沙汰・・・・・北条政村・北条実時・安達義景が参会

要するに、三浦泰村にもいろいろ疑念はあるが加えておこうという判断だ、しかし当時六波羅探題を勤めていた泰時の弟の重時(sigetoki)を鎌倉に呼び戻したいという時頼の意見を、泰村が即座に反対したことで、泰村と時頼の関係はかなり微妙になったと考えられる。  (吾妻鑑)
しかるにこのような泰村の尊大な態度は、周囲の人々の批判の的となり、やがて泰村の惣領家が幕府内で孤立せざるを得ない状況を招くことになる。   いわゆる「宝治合戦」への道のりになる。

宝治合戦(三浦氏の乱)自体については、ここでは三浦氏の追い落としを狙った時頼が安達景盛(kagemori)・義景(yosikage)父子と組んで起こし、三浦氏側も孤立していたとはいえ、一族・親類を集結して戦ったが敗れてしまった事件と考える。  時頼の狙いは一つ、宿老三浦氏の排除にあったことは疑いない。
開幕以来三浦氏は宿老筆頭として並み居る御家人に対する影響力は大きかったし、何よりも宿老たる地位は鎌倉殿を支えることを期待されてきた。  だが、時頼の狙いは他にもあったようだ、おそらく相模国を実質支配する三浦介の地位と権限を奪い取る事、そして武蔵国と並んで北条得宗家の地域支配の基盤に据えようとしたのではなかろうか・・・・ 終り。    

*次回より、主テーマ 「鎌倉北条氏」 を解析・レポートするです予定です。

丙申・辛丑・丙戌




スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


御家人・三浦氏 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<鎌倉北条氏 | ホームへ | 頼朝後の三浦氏>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する