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両総の勇・上総氏、千葉氏

2019.10.05(07:00) 240

◆◆・・・新連載 **千葉・上総一族

**高望王の下向と関東平氏

   千葉氏は、三浦氏・畠山氏と同じ祖を持つ平安時代の武士団である。  桓武天皇の曾孫高望王(takamotiou)は寛平元年(889)、臣籍に下り、平姓を賜り、上総介に任じられて関東に下向した。  皇族であった高望が関東に下向したのは、当時、中央において皇族にあてがわれる官職が不足しており、朝廷から支給された僅かな給付では皇族としての体面を保つのは困難な状況であった。
  高望が国司の職を選んだのは中央の官人には原則として認められていない「職分田」や労働力としての「事力」を与えられた事。さらに国内の空閑地を耕して私利を得たり、元来、赤字補填として配分されたものの分配を受ける事によって莫大な利益が得られたからと考えられる。 さらに、新しい耕田の開発に成功すれば広大な私営田を獲得する可能性があった。

   高望が上総介に補任されたのは、中央政府の政策と高望のニーズが一致した事から実現したものと考えられる。 当時、東国では世情が不安定であり、朝廷の威光が届きにくい状況であった。 その東国に皇孫である高望が下れば、古来、皇室の直轄領の多いこの地方では貴種として尊ばれ、その権威は絶大な影響力を持っていた。

   さて、上総国に赴任した高望王は、在任中、国司の地位を利用して多くの耕地を開墾し、広大な私営田を獲得したと考えられているが、任期が終わった後も、そのまま関東に残り、新たな耕田の拡大を図った。  また、関東地方に古くから勢力を持っていた在地の豪族と婚姻関係を持つ事で高望の子孫の子孫である関東平氏の一門は東関東を中心に各地に勢力の拡大を図った。

    こうして、高望の子や孫は上総国、相模国、武蔵国、下総国、常陸国などに広く分布することになった。
  高望が没した後、子の国香(kunika)・良兼(yosikane)・良将(yosimasa)・良文(yosifumi)・良正(yosimasa)等は、その所領を継承した。 また新たな墾田の開発によって多くの私営田を獲得し、強大な私有田領主として成長していった。

    国香の子孫は貞盛流(sadamori)と繁盛流(sigemori)に分かれたが、貞盛流からは平清盛に代表される伊勢平氏や相模の北条氏が出ており、良文の子孫は三浦氏や和田、長尾、大庭、梶原、鎌倉氏、千葉氏、上総、畠山、河越、葛西、江戸、秩父、土肥氏などの有力武士団があり、これらは東関東各地に割拠した。
    │国香─貞盛流─伊勢平氏(清盛)、北条氏など。
*高望──
    │良文─────千葉氏、上総氏、畠山氏、河越氏、葛西氏、江戸氏、秩父氏、三浦氏、長尾氏、大庭氏、梶原氏など。


    高望の子は、常陸大掾や下総介・上総介・武蔵守などの国司や在庁の官人に任じられ、伝領の土地の他に、その地位を利用して新たに墾田を開発し、広大な私営田を獲得して勢力を拡大した。
  また、その強大な勢力を背景に武装化し、鎮守府将軍などの地方軍事官僚となったり、中央の有力貴族の私兵となって次第に実力を付けて行った。   こうして関東平氏の諸氏は中央政府、貴族と関係を結び、その軍事的要請に応じる事によって、絆を強くすると同時に、その拠点とされた関東地方では新たな耕田の開発や武装組織の育成に努めていた。

**千葉・上総両氏武士団の成立

   千葉介常重(経繁)は保延元年(1135)、家督を常胤に譲るが、その所領は常胤、胤隆、胤光の三人に継承された。
  このうち、常胤は千葉庄、相馬御厨、立花郷などの常重の所領の大部分を継承した。  「吾妻鑑」等の諸本には千葉氏の武士団には常胤の子や孫の名前は登場するが、常胤の兄弟や祖父常兼から分かれた海上氏、白井氏、臼井氏等の諸氏は含まれていない。  治承期の千葉氏武士団に常胤の兄弟や叔父たちの出陣の記録が無い事は、常重の形成した武士団が家督の継承に伴って、一旦解体したものと考えざるを得ない。 これが事実であれば厳密には千葉氏武士団の成立は常重の代ではなく、常胤の代に成立した事になる・・・・。

   大椎権助常兼(経兼)の子常重(経繁)(常胤父)は大治元年(1126)、千葉に移住し、相伝の私有地である千葉郷や相馬郷を八条院や伊勢神宮に寄進して新しい武士団形成と所領の経営を進めた。  
  しかし、常重の獲得した相馬・立花郷などの所領は本拠地の千葉からは遠く離れており、軍事的、経済的の弱い成立時の千葉氏では、その経営を円滑に進める事は困難であった事が推定される。

    長承四年(1135)、常重は相馬御厨の下司職を嫡子の常胤に譲ったが、下総国司・藤原親通は常重を公田官物の未納を理由に捕え、これを理由に相馬郷と立花郷を親通に譲るという証文をつくらせた。   その後、康治二年(1142)になると東関東で武士団の再編・強化を図っていた源義朝は常重から相馬郷の譲渡状を書かせた。 義朝は、この土地を改めて伊勢神宮に寄進している。

*相馬御厨・・・・・現在の茨城県取手市・守谷市、千葉県柏市・流山市・我孫子市辺りの広大な寄進型荘園の一つ。
  
これに対して、常胤は公田官物の未納分を納入して相馬郡司に任じられた後、再度、相馬郷を伊勢神宮に寄進した。  この為相馬御厨の下司職は義朝と常胤が競合し、争う事となった。  ただ、常胤は保元の乱(1156)には義朝軍に参戦している事から両者の間には何らかの主従関係が成立し、義朝を領家とした相馬御厨の下司職は常胤が確保したものと思われる。

   しかし、義朝が平治の乱に平清盛に敗れると相馬御厨は国衙に吸収された。 常胤はこれに対して御厨の領有を主張したが、今度は佐竹昌義の子源義宗が、常胤の父常重の譲渡状を盾に相馬御厨の在地支配権を主張した。
  この譲状は、以前、下総国司藤原親道が常重の公田官物の未納を理由に攻め取ったもので、常胤はこれを弁済した為既に文書の効力は無かったが、義宗は平氏の権力を背景にして、相馬御厨の領有権を主張し、侵奪を実行したのである。  平家を憚った伊勢神宮は義宗の主張を認めた為千葉氏は相馬御厨の領有権をすべて失ったのである。  
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