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剛勇・武略  畠山重忠

2019.07.20(07:00) 241

**畠山一族

**頼朝上洛

    奥州を平定し、兵馬の権を確保した頼朝は、ついに上洛を決心した。 建久元年(1190)は諸国に水害などの災害が多発し庶民の暮らしが厳しい状況にあったので、この上洛計画の延期が検討されたが、すでに法皇に約定した事であるので出発が決定された。
  上京に関する諸々の事が決定されたが、その中で、次の事が定められた。

 一、 先陣随兵の事    和田太郎義盛
 二、 後陣随兵の事    梶原平三景時
   
   と見える事である。


頼朝は重忠を呼び出し、奥州出陣に引き続き先陣を命じた。  今度の上京は、頼朝が正二位の公卿として、晴れの都入りであり、その先陣を勤める事は名誉なことであるから、多くの御家人たちが指名されることを望んだ。
随兵には譜代の勇士でである事、弓馬の達人である事、容儀が神妙であるであるという三徳を兼ね備えた者を選ぶと頼朝の意向である。 また、頼朝は御家人の八田知家(tomoie)を呼び故事を知る参謀として、相談をし決定されたらしい・・・・・。

**任官

    頼朝は上洛すると、先ずは石清水八幡宮に参詣し、後に院の御所に拝賀する。 十二月一日、頼朝が右近衛大将に任ぜられた。  その後、院からたっての勧めにより、御家人十人が、左右衛門尉・兵衛尉に補任された。  この十人は、千葉常胤・梶原景時・三浦義澄・八田知家・葛西清重・和田義盛・佐原義連・足立遠元・小山朝政・比企能員で、始めの四人は功を息子に譲っている。 頼朝の創業からの功を考えると、この十人に重忠を割り込ませるの少し無理かもしれない。 この時重忠が任官できなかったのはやむを得ないであろう。
  頼朝初の上洛を終え、鎌倉に帰った、帰途の先陣も重忠が務めたと考えられる。

**重忠の妻と子

   重忠の妻として現在明らかになっているのは、足立遠元の息女と北条時政の息女である。  畠山氏関係の諸系図によると、重忠の子息として、六郎重保・小次郎重秀・五郎清重・十郎時重・重清・重慶(tiyoukei)円耀(enyou)が見いだせる。  六郎重保の旁註に「母北条時政女」と記されている。 さらに「吾妻鑑」の記事に、実朝室となる坊門信清息女を京都に迎えに行く使者の一人として重保が起用されている事などから、重忠の嫡男は時政息女を母とする六郎重保とするのが通説となっている。

   それに対し、畠山氏関係の諸系図で、長男の位置に重保が記されている事、「足立系図」における足立遠元息女の注記に「畠山次郎平重忠妻なり。六郎重保・小次郎重秀等の母なり」とあること等から、「時」の字を実名に冠する時重を時政息女の子息、嫡子重保・小次郎重秀らを足立遠元息女の子息とするのが妥当と思われる。

   足立遠元の本領武蔵国足立郡は、荒川と入間川に挟まれた巨大な郡である。 荒川水運・入間川水運双方にアクセスする勢力権を形成していた畠山氏にとって、足立氏との連携は重要であったであろう。 重忠と足立遠元息女の婚姻を主導したのが重忠本人であったか、父重能であったか確定する事は難しい。
  一方、重忠が北条時政の息女を娶ったのは治承四年(1180)以降と考えられ、この婚姻もまた重忠自身が関わって成立したと考えられる。

    北条時政は、重忠だけでなく、重忠の従兄弟である稲毛重成(sigenari)にも息女を嫁がせている。 時政は秩父平氏嫡流に属する畠山流との関係を密にする事で、自己の支持基盤の拡大を目指したと考えられる。  時政と重忠・重成が姻戚となる事は頼朝の望むところでもあったのではなかろうか・・・・・。  
  時政を媒介にして、畠山・稲毛は頼朝の義兄弟となったのである。 頼朝が鎌倉の後背地である武蔵国を掌握するためには、秩父平氏嫡流を掌握する事が必要であった。
重忠・嫡男・・・ 畠山重保邸跡石塔   (鎌倉市・由比ヶ浜)
畠山重保・石塔
風景・二題・・・・・・・・・・妙本寺・・・・・海蔵寺
妙本寺二天門
海蔵寺蓮

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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