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剛勇・武略  畠山重忠

2019.07.25(07:00) 242

**畠山一族

**頼朝政権・畠山重忠

    頼朝の時代、頼朝を軍事的・経済的に支えた重臣たちは、幕府初期に「宿老}と呼ばれた。  千葉常胤(tunetane)(1118年生まれ)・上総介広常(hirotune)(1127年生まれ)・三浦義澄(1127年生まれ)・土肥実平(sanehira)(1155年生まれ)・小山朝政(tomomasa)(1155年生まれ)・三善康信(yasunobu)(1112年生まれ)・岡崎義実(yosizane)(1112年生まれ)足立遠元・安達盛長 (何れも生年不明)等が検出される。  彼らの多くは東国の有力武士である。

    小山朝政は文治二年(1186)の時点で宿老に列していたが、名門武士の家の嫡子であるために、その地位に就いていたのであろう。  重忠は朝政よりおそらく九歳若く、文治二年の時点では年少であった為「宿老」に入らなかぅたと考えられる。  しかし、重忠が「宿老」に列した事実を確認できなかった事は重要で・・・、「宿老」にには選ばれなかったと考えるのが素直な解釈であろう。

   また、重忠は、頼朝に近侍してその施策を実行する「昵近衆」(jitukonsixyuu)にも入っていない。 頼朝の信頼する御家人たちの中に加えられていなかったのである。  一方で、頼朝権力下に於ける重忠の地位自体は高かった。  頼朝は、一門とそれに準ずる門客・門葉(monyou)を幕府内の最上位とし、その下に鎌倉で出仕し供奉する御家人を位置づけた。
  重忠は鎌倉内供奉衆に位置するが、その座次は門葉である里見義成(yosisige)より高かった事が見える。  (吾妻鑑)
  さらに頼朝が重用人物と謁見する際には、重忠は「南一座}を占め、「北一座」の梶原景時と並んでおり、御家人中でも高い座次にあったと考えられる。  知られるように、頼朝出行の行列では先陣随兵を多く勤めている。   特に頼朝の鎌倉入り、奥州合戦における頼朝直轄軍の出陣、二度にわたる頼朝の上洛といった、幕府政治の重要な節目で先陣を勤めている。  

   以上の事から、畠山重忠は、頼朝と一定の距離を持ち、幕府政治の中核には参加しないものの、幕府有数の有力武士としての待遇を受けていたと言える。  頼朝と重忠の関係について研究者は、「建前では重用されながら、一定の距離があった」 との指摘をしている。
凌霄花・三題      日蓮宗・妙本寺 (大町)
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海蔵寺  (扇ヶ谷)
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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