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剛勇・武略 畠山重忠

2019.08.05(07:00) 244

**畠山一族

**幕府内政争と畠山一族

   頼朝期の武蔵国支配は、知行国主の地位に基づいて国衙・国務を掌握する行政的支配、国内武士の御家人化による主従制的支配によって構成されていた。 そして、それらを補完したのが、秩父平氏・畠山流、秩父平氏・河越流、横山党嫡流が形成した軍事的テリトリーであった。

   頼朝は、畠山重忠・稲毛重成・榛谷重朝(hangaya)(秩父平氏・畠山流)、河越重頼・師岡重恒(秩父平氏・河越流)、横山時広(横山党嫡流)らの軍事的テリトリーを承認しつつ、彼らの影響下にあった中小武士の多くも御家人化した。

    頼朝による国内武士の広範な御家人化は平氏の武蔵国支配には見られない新たな支配方式であるが、知行国主の地位に基づく国務執行、有力武士の軍事的テリトリーを介した地域支配は平氏段階との連続性を持っている。  頼朝は秩父平氏嫡流に緊張をもたらす政治を行ったが、彼らの家格を相対化したり、本領の没収や軍事的テリトリーの解体を進める事はしていないのである。
  さらに、畠山重忠・稲毛重成・榛谷重朝・横山時広は頼朝に重用された。

   重忠は幕府内で高い地位を与えられ、秩父平氏の族長として武蔵国惣追捕使の地位に就任したとみられる。  他の者も頼朝の近くに仕え、秩父平氏の中では葛西清重とともに、重忠に次ぐ地位を得たとみられる。
  彼らの中で、特に畠山重忠・横山時広は秩父平氏嫡流・横山党嫡流の族長であり、幕府の武蔵国支配成否のカギを握っていた。 彼らは頼朝を力量ある主君として認めその統制に服した。  豪族的武士団の長たちが、頼朝という傑出した指導者と結びつくことによって、武蔵国を含む幕府の東国支配は成り立っていた面があったのである。  

   従って、頼朝が死去すると彼らは自身の所領や権益を守る事を自覚するのである。  頼朝の死後に幕府内で政争が起こった一因には、所領・権益を維持しようとする東国武士たちの自己運動があったのである。 
  重忠もまた幕府内部の政争で主導的に動き、結果として滅亡したのである。
鎌倉風景・三題・・・・・・・瑞泉寺・フヨウ(白のフヨウはまだでした)
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鶴岡八幡宮・源氏池  (ハスは終わりました。?)
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