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剛勇・武略 畠山重忠

2019.08.09(07:00) 245

**畠山一族

**二代将軍と畠山重忠

     頼朝は建久十年正月十三日に死去した。
  その死因については落馬がもとであったとも、糖尿病であったとも、暗殺説もあるが、確定は難しい・・・・。  
  頼朝死去の情報を得た源道親(mititika)は、臨時の任官儀式を行い、自らの右大将兼任と頼朝の嫡子源頼家の左近衛中条任官を実現させた。 さらに、その五日後の正月二十五日付けで、朝廷は、頼朝の家人は中将頼家に従い、諸国の守護を奉仕せよ、という趣旨の宣旨を出した。
  朝廷は、頼朝の死によって鎌倉幕府が混乱・解体するのではなく、幕府権力が頼家に円滑に移行することを望んだのである。

  頼家の政治については、相次ぐ失政や京都の政治勢力の動きと結びついた政争によって、源氏将軍の凋落と北条氏の台頭を許したという否定的な評価が通説であった。 しかし、近年では、頼家期の政治の具体的な研究が進み、彼の政治は父頼朝の路線を踏襲する基本方針に沿っており、実朝期にも継承されたものもあった。

   さて、重忠であるが頼家との関りが「吾妻鑑」の訴訟に関する記事に認められる。  重忠が地頭であった陸奥国長岡郡内の新熊野社の僧が坊領の境界について紛争を起こし、証拠文書を持って重忠に裁定を求めた。
 「当社は、今私の領内にあるが、藤原秀衡が管理していた時、朝廷の御祈祷を致し、今はまた武門の繁栄を祈り奉っている以上は、独自に判断し難い」 として、三善善信に訴訟をゆだね、善信が頼家にこれを取り次いだ。 
  頼家は、重忠が進上した境界絵図を取り寄せ閲覧した後、自ら筆を執り、絵図の中央に墨を引いた。
  この逸話は、理非を無視した頼家の暗君ぶりを示すものとして著名である。 しかし、この逸話の直後に、頼家の側近の僧源性が陸奥国伊達郡の堺相論の実検に下向している記事が見える事などから、この逸話の信頼性に疑問が残る。  (吾妻鑑)

   一方、頼家が有力御家人の利害に反する政治を行っていた事も事実であろう・・・・・。 よく知られている事例で、諸国の大きな土地を召し出し、「治承・養和」の新恩地の中で500町を超える分については没収し、所領の無い側近に与えようとして、宿老の反対を招き、一旦撤回したという。 (吾妻鑑)

  さて、頼家が鎌倉殿になってからの重忠の幕府内での立場は、頼朝期と基本的には変わらない、重忠は「十三人の合議制」 を担うメンバーに入っていない。 重忠の年齢は彼らの世代より少し下るので、政治経験の面からも選ばれなかったのでしょう・・・。ともかく、幕府の意思決定には関与していないという、草創時代からの位置づけは変わっていないのである。
   一方、有力御家人としての地位を保ち続けた事も確かである。 頼家の妹三幡(sanman)が病の為十四歳で死亡した。 この三幡の葬儀に参列した有力御家人たちの中に重忠の名が見える。   北条義時・大江広元・小山朝政・三浦義澄・結城朝光・八田知家・足立遠元・梶原景時・宇都宮頼綱・佐々木盛季・二階堂行政らと共に参列している。  (吾妻鑑)

   重忠の立場は有力御家人の一角にあるが、幕府内の意思決定には関与しないという立場は継続していたのである。
  頼家は彼らを抑え込んででも幕府権力の基盤を固めようとしたのである。  しかし、重忠は頼家の政治には批判的であった可能性が高い。
風景三題・・・・・  建長寺・刑場址   (鎌倉市・山之内)
刑場址・建長寺
明月院やぐら・ 明月院  (鎌倉市・山之内) 
明月院・やぐら
亀ヶ谷坂切通  (鎌倉市・扇ヶ谷)
山之内~扇ヶ谷切通し

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