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剛勇・武略 畠山重忠

2019.08.15(07:00) 246

**畠山一族

**重臣の失脚

   先にレポートしたように、頼家の政治は有力御家人たちと衝突しうる要素を持っていた。  頼家と有力御家人たちがすぐに対立関係になった訳ではない。  しかし、彼が若かった事から、頼朝時代に潜在していた有力御家人の不満が表に出てくようになった。  その顕著なものが、梶原景時の失脚である。  景時は頼朝に重用されて侍所の所司に就任し、またさまざまな人々を讒言して破滅や窮地に追い込み、御家人たちの反感を買っていた。

   景時は、十三人合議制のメンバーであり、他の有力御家人・実務官僚と共に頼家の政治を支える立場であったが、一方で景時は、頼家自身にも近しく仕えていた。  頼家が有力御家人の利害と衝突しうる政治を行うにあたって、頼朝以来の将軍側近である景時の存在は重要であったと考えられる。  彼の立場は、結城朝光を讒訴したとみられる事件をきっかけに悪くなったと思われる。
  
   結城朝光は頼朝の死後、周囲の者に「忠臣は二君に仕えずという、遺言の為出家遁世しなかった事を後悔している」 と漏らしている。 この発言を、景時は頼家に対する批判とみなして、彼に報告したらしい。
 翌日、幕府の女房阿波局(北条時政娘)は、朝光に「景時の讒訴により貴方は誅殺されそうになっている」 と告げた。 朝光は、親友の三浦義村に相談、義村は事態を重く見て、和田義盛・足立遠元らと共に同心の連判状を記し、翌日には、千葉常胤・三浦義澄・重忠らの有力御家人が鶴岡八幡宮に参集し、併せて66名の梶原景時糾弾の訴状が大江広元を介して頼家の上覧に供され、景時は陳弁できなかったという。

   鎌倉を追放された景時は上洛を試みたが、駿河国清美関で同国の御家人に襲われ戦死している。  景時と重忠の関係はあまり良くなかったようだ。 重忠は景時の失脚を進める立場をとり、頼家の政治を抑制する側として行動したことになる。 頼家の意欲的な政治は有力御家人と衝突しうる要素を持っていた。 頼家が自身の政治力を発揮しようとした時、将軍側近である景時の存在は重要であった。しかし、頼家は重忠を含む有力御家人の意向を入れ、景時を見捨てたのである。  (吾妻鑑)

   景時の失脚後も、重忠が頼家を積極的に支援した形跡は見いだせない。 その要因として、頼家の舅である比企能員とその一党との競合が想定された。
風景三題・・・・・・・鎌倉大仏 (鎌倉市・長谷)
鎌倉大仏
鎌倉大仏殿礎石・・・・・・・(鎌倉市・長谷)大仏建屋礎石
段葛石塔・・・・・・鎌倉八幡宮二の鳥居 (鎌倉市・雪ノ下)
段葛

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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