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剛勇・武略 畠山重忠

2019.08.20(07:00) 247

**畠山一族

**重臣・権力闘争

    梶原景時の失脚後、頼家の舅である比企能員(yosikazu)とその一党との競合が想定される。
  比企氏の出自は定かでないが、藤原氏の武士か京都の下級官人の出身者が武蔵国比企郡に権益を得て、比企氏を名乗るようになった可能性が高い。 能員の伯母が比企尼で頼朝の乳母であり、平治の乱後、伊豆国に流された頼朝の支援を20年に渡り欠かさなかったという。  
   比企能員は比企尼の姉妹の子息で、安房国の住人とされる。  能員が信濃・上野の守護に相当する職権を行使する一方、比企掃部允の弟と思われる比企藤内朝宗(tomomune)は木曾義仲滅亡後に北陸諸国を管轄し、治承・寿永の内乱以後も比企一族・縁者が北陸道の守護を占めていた。 比企一族は武蔵国北部から上野・信濃・北陸道に至る巨大な勢力圏を形成していたのである。

    そして、比企氏は、武蔵北部の権益をめぐって畠山氏と競合する関係にあった。  比企氏の本領比企郡は、畠山重忠の本拠畠山館・菅谷館がある男衾郡(obusuma)と隣接している。  また、畠山重忠は児玉党を影響下に置いていたが、比企能員も息女を児玉党の某に嫁がせている。 畠山氏の勢力圏と比企氏の勢力圏は重なり合っていたのである。
  武蔵から北関東に至る主要な道であった鎌倉街道上道下野線に入るルートとして、鎌倉街道上道の本道から埼玉県比企郡で分かれ、足利方面に向かう経路があったと考えられる。 これらのルートを巡っても両氏は競合関係にあった事が推測される。

    幕府政治をめって将軍頼家の外祖父・北条時政と舅の比企能員が権勢を争う状況下、時政の女婿であり、比企氏と競合する重忠が、時政に近い政治的立場をとるのは自然な成り行きあっただろう。

    そのような時期に頼家が病を発症、重病であった。 幕府重臣たちは源氏将軍家の家督相続について評議が為され、弟の千幡(実朝)に関西三十八ヵ国の地頭職を、長子(一幡)に関東二十八ヵ国の地頭職と惣守護職が譲渡された。  この決定は、弟の実朝に多くの権益を引き渡すもので、頼家の舅としては不満の残る裁定であったと思われる。
  「吾妻鑑」の記述によれば、裁定に不満のあった比企氏一門に、北条氏一門を陥れる謀略が計画されたという、この記述には疑問が残るが、比企氏と北条氏の対立が顕在化した事は事実であろう。

   そして、比企氏は北条時政によって謀殺され、一党は滅亡に追い込まれた。  比企氏一党も激しく防戦したが、合戦の趨勢を決めたのは畠山重忠とその配下であった。  この戦いで頼家の嫡子・一幡は命を落としている。
  重忠は、比企氏を滅ぼそうとする北条時政の策動に積極的に加担した。  その動機は、武蔵北西部における比企氏との勢力争いである。 此の地には、重忠の本領と軍事的テリトリーが形成されており、比企氏の勢力拡大は自身の本領・勢力圏の維持に直接関わる事であった。
  重忠は、一幡の御所を襲撃するにあたって、一幡の安全に配慮した形跡が見あたらない。 比企氏と結びつく頼家よりも時政を選んだのであり、小御所攻撃にもためらいが無かった様である。

    その後、頼家は回復の兆しを見せた。  この時に比企氏の滅亡を知り、和田義盛と仁田忠常に北条時政の討伐を命じたが、賛同されなかった。 頼家の反撃は未遂に終わり、伊豆修善寺に幽閉、配所で斬殺された。

妙本寺山門
妙本寺山門
幕府重臣・比企能員邸跡  (現妙本寺)
比企能員碑

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令和元年乙亥・癸酉・己丑
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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