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剛勇・武略 畠山重忠

2019.08.25(07:00) 248

**畠山一族

**北条時政との対立

    比企氏の乱の直後、建仁三年九月に千幡を従五位下征夷大将軍に叙任する位記と宣旨が鎌倉に届いた。  千幡は元服し実朝と名乗った。  鎌倉幕府三代将軍・源実朝の登場である。

    北条時政は大江広元と共に政所別当に就任。 時政の立場は、複数の政所別当中の実務責任者である執権別当であった。
  時政の権勢が大きくなった背景には、外戚の実朝が建仁三年当時十二歳の少年であったという事情があった。  時政は外戚としての立場を根拠として、政所の実質的な責任者になったのである。  時政の権勢は、幕府発する文書の形式にも現れた。 この時期、時政が単独で実朝の意思を奉じる下知状を発給していた事が知られる。

    侍所別当・和田義盛の奉行により、「武蔵国諸家の者たちは、遠州(時政)に対して二心を抱いては成らない」 という命令が鎌倉殿実朝から出された。  (吾妻鑑)
  この命令は、鎌倉殿に代わって、北条時政が秩父一族を含む武蔵国の武士を指揮する事を命じたものと考えられる。

    この処置は、比企氏の乱直後の武蔵国に関わる事案である以上、北条時政が武蔵国守護・平賀朝雅(時政・女婿)と連携して主導した比企氏乱後の戦後処理と言われる・・・・・。  
  そしてこの戦後処理が、今度は北条氏と畠山氏の対立を招くことになる。  時政が武蔵国への関与を強める動きは、武蔵国惣追捕使であり、北西部に本領と軍事的テリトリーを保持する重忠の利害に反するからである。
  とにかく、北条時政に従う事を命じられた「武蔵国諸家」の中に重忠も入っていたであろうから、この命令によって重忠は時政の下位に位置づけられた見られる。  頼朝以来、本領所在の武蔵国で、重忠が鎌倉殿以外の武士の指揮下に入る事は無かった。
  この命令によって、両者の関係は悪化をもたらしたと見るべきである。  

    「関東で争乱が起こった。 北条時政が畠山重忠に敗れ山中に逃げ延び、大江広元は既に殺された」 という 誤情報が、京都の藤原定家の許に届いた。  (明月記)

    さらに、畠山氏は、平賀朝雅とも対立していた。  元久元年十月、実朝の正室となる坊門信清の息女を迎えるため、幕府は、北条時政の子息政範・結城朝光・千葉常秀・畠山重保らを使者として上洛させた。  この任務中に事件は起きたのである。 現任の武蔵守で北条時政のシンパである朝雅と、武蔵国惣追捕使畠山重忠の嫡子重保の口論は、おそらく武蔵国支配に関わる話題を含んでいたと考えられる。
  この後、両家間の緊張は元久二年正月まで続くのである・・・・・・・。 そして、その両家の対立を仲裁したのが、千葉氏の当主成胤であった。  千葉氏と畠山氏との間には、先祖以来変わらぬ親交があったのであろう・・・。
源実朝生誕800年記念碑・・・・・(扇ヶ谷・寿福寺三門付近)
実朝生誕800記念

白旗神社・・源頼朝・実朝 祀られる (鎌倉鶴岡八幡宮)
白旗神社
政所別当・大江広元邸跡石塔 (鎌倉・十二所)
大江広元邸跡

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令和元年乙亥・癸酉・甲午
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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