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鎌倉北条氏

2017.01.02(10:27) 25

**鎌倉北条氏の草創

*伊豆国・北条

鎌倉幕府を主導した執権北条氏は、北条介を通称とした伊豆国在庁官人の家を継承することで成立した。  北条氏の本拠地は、静岡県伊豆の国市寺家(条里制・北条)にある守山中世史跡群のひとつ、史跡北条氏邸跡がその場所と考えられています。
この遺跡は12世紀中期から使われた痕跡があり、仮に1150年(久安六年)の建設とすると、北条時政は13歳、北条政子は誕生の7年前のなる。  そのため、北条氏がこの土地に進出したのは、時政の祖父或は父ともいわれる時家(tokiie)(北条)の時代と考えられている。  この館跡は狩野川東岸にあり、洪水被害を想定した位置だと考えられている。伊豆国府の置かれた三島から南側に延びた下田街道沿いに10㌔ほどの距離ににあり街道と河岸に睨みを利かせた交通の要地であった。
伊豆国在庁北条介の婿として下ってきた時家が、本拠地を構えるには好適な場所であったという事が出来る。

北条氏の先祖については「吾妻鑑」等に記された上総介平直方(taira・naokata)の子孫とする説と、「平家物語」が伝える平維衛の子孫時家が伊豆国在庁北条介の娘婿となって伊豆国に入ったという説がある。   平直方は、鎌倉に拠点を構え平忠常の乱鎮圧に努めたが、忠常の降伏を認めず滅ぼそうとしたために更迭された剛直な武人です。 後任の源頼信(yorinobu)は忠常の降伏を認め鎮圧の名声を得ましたが、直方の娘を嫡子・頼義の正室に迎える気配りを見せている。 二人の間に誕生した嫡孫義家(八幡太郎)が直方から譲られた鎌倉館が、奥州12年合戦(前九年・後三年の役)で河内源氏の拠点となるのです。

河内源氏・鎌倉館跡・・・現・鎌倉五山第三位  臨済宗建長寺派・寿福寺参道   (鎌倉市・扇ヶ谷)
寿福寺・参道

「吾妻鑑」や鎌倉中期以降に成立した北条系図は、源氏と鎌倉の関係をここに求めていますが、直方(naokata)から時政に至る歴代が明確でない事、傍証がない処に問題があります。一方、平惟衛の末流である時家が伊豆国在庁北条介の娘婿になったと伝えます。この系譜は、北条氏の先祖を伊勢や大和の周辺で勢力を蓄えた伊勢平氏の庶流と説きます。  平時家に関する近年の研究は、大和源氏との婚姻関係が見えることから、鎌倉中期以降に見られるようになった北条氏の系図が伝承したと考えられる。 北条時家の伊豆国下向の時期と、史跡北条氏邸跡の使用が始まった時期がほぼ重なる事も、後者の可能性が高い。

*頼朝と北条氏

北条氏は、北条政子が頼朝の夫人となった事によって、鎌倉幕府の中で将軍家の家族という格付を得ました。 平治の乱で罪人となった頼朝はの不幸中の幸いは、伊豆国が源頼政(yorimasa)の知行国だったことです。頼政は武家源氏の棟梁を自認していましたし、伊豆国国衙の有力在庁・工藤介茂光(motimitu)も頼政の家人なので、流人頼朝の行動に寛容な態度を示した。 頼朝を監視する立場に立った伊東氏や北条氏も、頼政と工藤介の意向考えれば、頼朝を粗略には出来ませんでした。
北条時政が平氏の内裏大番役の為二上洛して京都の情勢を見聞し、「時勢を怖れ」頼朝と雅子の婚姻に反対したのは、平氏一門が後白河院政との厳しい情勢にあった治承元年(1176)、頃と考える。
治承四年(1180)5月に以仁王と源頼政が挙兵に失敗して討ち死にした後、平氏政権は源頼政(yorimasa)の孫有綱(arituna)を捕えるために大庭景親(kagetika)を相模に戻しています。 頼朝と時政は、以仁王令旨を受け取っていた事から、謀反人与党と見なされて討たれることを怖れ、挙兵に踏み切ったとされる。

しかし、平氏政権は、20年も前に伊豆国に流罪とした頼朝の存在など忘れていました。  頼朝の山木館夜襲は完全に虚を突いた奇襲だったので成功したが、父・義朝(yositomo)の勢力圏 相模・武蔵への進出をかけた石橋山合戦(isibasiyamakatusenn)では、態勢を整えた大庭景親(kagetika)・伊東祐親(suketika)の軍勢に挟撃され大敗し、工藤介茂光(sigemitu)や北条宗時(時政嫡男)が戦死するなど大きな痛手を受けてしまった。
石橋山で敗れた頼朝を房総に導いた土肥一族墓所  (神奈川・湯河原町・城願寺)
土肥一族・墓所

 頼朝は房総半島に渡って三浦氏や千葉氏を中核に勢力を盛り返し、上総介広常や畠山重忠(sigetada)が参加した事で坂東の大勢を決した後、10月には鎌倉入りし、鎌倉を本拠地と定めます。 

ここまでは鎌倉入りするまでの概略ですが、北条氏が頼朝の鎌倉幕府成立にどの様に係ったのか 「伊豆国・北条」 の時代から検証・レポートします。  (長くなりそうです、気長にお付き合い願います)    

次回に続く    

丁酉・壬寅・己丑          
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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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