FC2ブログ

タイトル画像

剛勇・武略 畠山重忠

2019.09.05(07:00) 250

**畠山一族

**二俣川合戦

  待ち構えた重忠の軍勢に北条軍が襲い掛かった。  足立景盛以下の北条軍は数万騎と考えられるが、激戦は四時間余りに及んだという。 恐らく攻撃軍は重忠に同情するところがあって、果敢な攻撃を控えたのであろう・・・。
  もし数万騎が本気で戦ったら、戦場となった二俣川のような地形の所では、いかに戦っても百三十騎位の畠山勢は一瞬にして撃破されたに違いない・・・。  しかし、敵の矢が重忠に命中し、重忠は首級を取られた。   42歳であった。
  この時をもって、重秀以下も自殺し、二俣川の流れに鮮血を染めて一族は滅んだのである。

    元久二年(1205)6月23日、 義時以下の軍勢が鎌倉に帰還、時政に戦況の報告がなされ義時は、重忠の弟や親類は大方他所にいて二俣川には僅か百騎余りでしたから、謀反を企てたとは「嘘」でした。 と報告している。   
  重忠は無実の讒言で殺されたので、非常に残念である。  年来一緒に過ごした仲間なので誠に悔しい・・・。時政は一言も無かったという。

 その後、同族の稲毛重成の一族が、三浦義村によって誅殺される事件が起こった。(吾)

  二俣川合戦の起こりは全く重成の奸謀によるものとされた。 平賀朝雅が重忠に遺恨があり、牧の方に諫言したので、時政が重成と語らい・・・、鎌倉に変事が起きたと通報し、二俣川で重忠は非業の死を遂げたのである。
    


   義時が重忠に同情的だったのは理解できるのだが、その後の展開がいささか不自然さが残る・・・・・。 
  事件後、相談相手としていた姉の北条政子が、重忠の所領を勲功のあった者に与えている事、更に政子に仕えた女房たちにも亡卒の遺領を与えている。  無実と知っての事ならば、重忠の遺族らに所領を安堵させるべきなのに、義時はこの件を諌めた形跡はない。   

   しかも義時は、重忠を謀殺する時は、時政の意見に結果的に同調しながら、 平賀朝雅を謀殺する時には、時政をも失脚させている。
  このように、義時の二俣川合戦以降の行動に矛盾をを感じるが・・・・、「吾妻鑑」の編者が強いて義時を弁護しているように見えるが・・・・・・・。
  「吾妻鑑」の記述が北条氏の為に曲筆している事は他にも多く認められるらしい・・・・。
安達景盛邸旧跡・・・・・鎌倉長谷・甘縄神明社付近
安達盛長邸
北条義時法華堂跡・・・・頼朝公墓の東側の位置
義時・法華堂跡
畠山重忠終焉の地碑・・・・・・(横浜市旭区二俣川)
畠山重忠終焉の地

次回へ

令和元年乙亥・甲戌・乙巳
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<剛勇・武略 畠山重忠 | ホームへ | 剛勇・武略 畠山重忠>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する