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剛勇・武略 畠山重忠

2019.09.10(07:00) 251

**畠山一族

**重忠はなぜ謀殺された?

    畠山重忠も平賀朝雅も北条時政の婿であるが、妻同士の姉妹はは腹違いであった。 それで、仲が悪くて讒言でもあったのであろうか。
  重忠は弓矢にかけては無双の仁、剛勇で知られ、当将軍実朝の守護の人である。 北条時政・牧の方にとっては忠直な重忠は邪魔であるから滅ぼしてしまえと思って、重成を語っておびき出し謀殺したという説。 つまり、牧の方が実朝を除いて娘婿の平賀朝雅(源氏門葉)を将軍とする事の弊害となるので殺したという考え方である。

   この説は、暫くして実朝を除こうとした牧の方の陰謀が発覚し、結局時政は入道して伊豆に隠居し、牧の方は自殺、朝政は殺害されるという事件が起きたのであるからこの考え方はまともで、北条氏の野望を達成するためには、忠直な重忠がいては邪魔である、とするものである。

   しかし、源氏守護の武将は重忠だけなのか。   三浦氏、千葉氏、葛西氏、足利氏、小山氏、結城氏、安達氏らの諸氏はいかに・・・・。時政の婿である重忠が、この時点で滅ぼされなければならなかったのであろうか・・。

    前述したと思うが武蔵国は平家の知行国であった。  一の谷の戦い迄、武蔵守・知章(平氏)が治める平家の知行国で、実質的に治承四年(1180)には一時的に頼朝がこれを没収していた。
  そして、正式には元暦元年(1184)の徐目で、平賀義信(門葉)が頼朝の推挙によって武蔵守に任ぜられた。

   平賀義信は少なくとも建久六年(1195)までは武蔵守であった。  ついで正治二年(1200)に武蔵守朝政と見えるのは平賀朝雅(善信子息)の事であろう、以後散見しつつ元久元年(1204)に、武蔵前守朝雅とあるので、これ以前に更迭されたのであろう。  次に武蔵守が明らかになるのは、承久元年(1204)に補せられた北条時房である。

   ようやく武蔵国が北条氏の手に入ったのである。  北条氏は武蔵の国をガッチリ掌握したいと考えていたと思われ、武蔵国の国務を、北条氏嫡流である得宗の地位と不可分に結びついて、離れる事は無かったと推定される。   

   武蔵国の豪族は、先に河越重頼が殺害され、ついで比企能員が謀殺され、残るは重忠であった。 重代のの豪族を一掃しなければ、本当の掌握は出来ない。  時政にせよ、朝雅にせよ、あるいは義時でさえも、折あらば重忠を打倒しようと考えたとしても不思議はないのである。  さらに頼朝にしても武蔵国は掌握したかった筈である。
  それは恐らく鎌倉を防衛する為の戦略的意義を持つからであろう。

   義時は頼朝の感化を非常に強く受けた形跡があり、 義時こそが武蔵国を取りたかったのだとさえいえるのである。  しかも頼朝は、ともかく重忠の正直・忠誠を受け入れる地位にいた。   北条氏は違うのである。主従と同輩との違いである。  そこにはどうしても重忠を倒さなければならぬ要因があったと思われる。

   京都で重保と朝雅が口論したというのも、そのあたりが原因でなかったか?とさえ思う。  稲毛重成が誅殺されるのも、時政の一貫した方針であったのであろう。

   時政としては、実朝が結婚して一人前となる前に、つまり権力が自分にあるうちに、武蔵国の邪魔者を一掃したいと考えたのであろう。 この時強引に重忠謀殺の段取りをつけたと考えられる。

   牧の方が自分の娘と先妻の娘とを差別し、重忠を滅ぼそうとした事は、おそらく正しい推測と考える。 しかし、その讒言が効果を生ずるには、時政の行動が必要であった・・・。  この時すでに重忠一族の命運は風前の灯であった・・・・・・。
鎌倉御家人・足利貞氏(尊氏父)墓  (臨済宗・浄妙寺)(鎌倉五山第・四位)
足利貞氏墓
鎌倉幕府・初代御所・・大倉御所東・西門跡  (鎌倉市・西御門)
東御門
西御門

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令和元年乙亥・甲戊・庚戌
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