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剛勇・武略 畠山重忠

2019.09.15(07:00) 252

**畠山一族

**畠山重忠の評価

   畠山重忠は剛勇にして武略に富み、囚人となった後も、自ら清廉潔白、誠実二心なしと称し、よく礼節を重んじた。  また聡明叡智・思慮周密、音曲の才もあったという。  また風流を解し、神を敬っては、武州御嶽に自筆の願文を添えて太刀を奉納し、仏を崇っては、法然上人に帰依、畠山に満福寺を再興し、秩父に総持寺を創建したと伝えられ、鎌倉武士の典型と称される人物である。

  「吾妻鑑」などの記事をすべて信ずれば、従来の評価は当然重忠に与えられるべきものであった。 しかも現在のわれわれには、具体的事例が真実であるか、創作であるかを検討する手段がほとんどない。
  問題はそういう話や記録が伝えられていたこと、「吾妻鑑」などの編者が、それを書き記した点にある。  素直に読む限り、重忠の話は良い面ばかりが書かれている。 これは一体どういうう事なのか、と思わざるを得ない。

   重忠の美談が伝わった理由について考える・・・・・。北条氏は重忠を謀殺した後、武蔵国を掌握した。
  甲斐の国に入ったら武田信玄の悪口を言うべからず、という。 三河の吉良では吉良上野介、近江の彦根では井伊直弼、薩迄の西郷隆盛のように、武蔵における重忠の声望は絶大なものがあったのであろう。  北条氏は重忠の謀殺は絶対に必要であったのだが、武蔵国を得るためには、重忠が悪かったとすることは出来なかったのではないか。 重忠を悪く言っては、武蔵の人心を得る事は出来なかった。  武蔵のみでなく、当時の世間一般の人心をも得る事も難しかったのであろう。
  実朝も後に、「重忠、元より過ちなくして誅を蒙る」と言っている。   それで重忠は事実無根の事で謀殺されたのだ、仕掛けたのは平賀朝雅と牧の方、それに動かせられた時政である。 義時は極力弁護したが、牧の方の圧力でやむなくたったのである、という筋にしたのではないかと思われる。
   研究者の考え方では、義時弁護の曲筆といった説が多く見られるが、それは「吾妻鑑」の編集者の曲筆ではなく、編纂を始める以前よりの通説として伝わったとする方が自然である・・・。 と考えられている。

   「吾妻鑑」は「鏡」でである。  おのずから教訓を含む、美談佳話を多く挿話としているのは良く知られている事である。  重忠の場合、囚人となったのち起請文を断った話でも、最後の二俣川の時でも、梶原景時が罷免された時のような行動をせず、逆に戒めているのは、もっと教訓的な意味を放つのである。  重忠は筋を通して危険・困難をもあえて逃げないかによって、人間の価値が決まるという・・・・。
  かくて重忠の美談には人心を鼓舞するものがある。
鎌倉風景・三題    瑞泉寺・芙蓉 (台風の後)
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瑞泉寺参道

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