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両総の勇・上総氏、千葉氏

2019.10.10(07:00) 255

**千葉・上総一族

  **頼朝挙兵と千葉氏・上総氏

    平安時代の末に下総の千葉に移住し、武士団を形成した千葉氏は下総国司や源義朝などから侵奪を受け、平安時代末期までには、相馬、、立花での権利を完全に失い、次第に平家方から圧迫を受けていた。
  一方、上総に於いて武士団を形成した上総系の武士団は常晴の子常澄が源氏の棟梁として関東地方に勢力を伸ばしていた源義朝と結んで国内の武士団を統合し、下総に進出を図っていた。
  さらに常澄の子広常は平治合戦後も、上総国の全域にわたる所領や下総の埴生庄、木内庄などや千葉氏の所領であった相馬領迄勢力を拡大していた。

    このように千葉氏が所領の経営に苦しんでいる頃、平治の乱で敗れ、伊豆蛭ヶ小島に流されていた源義朝の子頼朝は、治承四年(1180)8月17日、三島大社の祭礼に紛れて、伊豆の目代館を奇襲し、目代の山木兼隆を討ち取る事に成功。  相模の石橋山に軍を進めた。  対して相模の豪族大庭景親は3000騎の兵を集めて石橋山に陣取る頼朝を急襲する・・・・・。
  軍勢の差は如何ともしがたく、敗れた頼朝は海路安房に逃れた。  安房に上陸した頼朝は、安西景益の館に入り、ここから上総介広常と千葉介常胤に使いを送って参上を命じた。
  使者に対し広常は「常胤と談合の上で参上する」と回答・・・・。 常胤は、その場で参上を回答したと言われる。  そして参上を決意した常胤は、六男胤頼と孫の成胤に命じて下総目代を討ち、平家方の千田親政を生け捕りにするなど下総国内の平家方の掃討を行った後、兵300騎を率いて下総国府で頼朝と参会した。
  二日ほど遅れて広常は兵2万騎(???)を率いて下総国府に隣接する隅田川に於いて頼朝軍に参入した。 
  下総国府で千葉氏や上総氏などの房総の武士の参集を得た頼朝は、隅田川を渡って武蔵国に侵入して武蔵の葛西・豊島・江戸・河越・畠山などの豪族を従え、鎌倉入りしたとされている。

   しかし、この治承四年の九月上旬の「吾妻鑑」の記事では、上総国の国守は平家一門の藤原忠清であった。
  この為上総国府を中心に国境地帯や国内の国衙領などの主要な地域には有力な平家軍が駐留していた可能性は高く、広常の参入以前に、少数の頼朝軍が、上総国境を突破し、上総国内を通過することは困難であり、千葉氏がこの時、頼朝の援軍の為に上総に進撃する事はあっても、千葉庄に隣接した上総国府に優勢な平家の上総目代軍がいた状態で、下総国府を攻撃したとは考え難い。

   一方、「玉葉」等他の史料には、広常の参入は頼朝の安房到着後の早い時期と推定され、千葉介常胤の参入も安房での頼朝の動向や上総における広常の動きを注視し、それらと連携を保ちつつ作戦を遂行していた可能性は高い。
  この為頼朝は上総侵攻の準備が整い次第、安房と上総の国境を突破し上総国に侵攻し、同時に広常・常胤らに命じて上総国府の攻撃を行った可能性は高い。 この時の上総目代は平家一門の平重国であったと考えられ、内容から、この戦闘は頼朝方の素早い行動によって、あっけなく終了したと推察される。

   こうして頼朝は安房国から上総国府に進出し、さらに、常胤に命じて下総国府の攻撃と下総の平家方を掃討し、下総国府を陥落させた。  この後、頼朝は安房や両総の兵を率いて下総国府に入城したとする事が、史実に近いと思われる。
下総国・郡庄図  (12・13世紀)
下総国・郡庄図
上総国・郡庄図 (12・13世紀)   
上総国・郡庄図
鎌倉初期・千葉氏(下総)系図
千葉氏系図
鎌倉初期・上総氏系図
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