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両総の勇・上総氏・千葉氏

2019.10.15(07:00) 257

***今回の台風により被害に遭われた方々・・・お見舞い申し上げます。

**千葉・上総一族

**頼朝挙兵と上総氏・千葉氏

    千葉常胤が頼朝に参上を決意したのは、常胤は頼朝の父源義朝と主従関係にあり、平治の乱後、相馬御厨が平氏と関係の深い源義宗(佐竹)に奪われるなど相伝の所領が侵奪された事。 また、常胤の六男胤頼は頼朝の流人時代からたびたび伊豆の蛭ヶ小島を訪れ、頼朝と会談している事。  また、七男の日胤も頼朝の祈祷僧といわれ、以仁王や源頼政の挙兵に参加し、戦いで戦死しているなど頼朝と縁が深かったと考えられる。

   しかし、最大の理由は蔵人所や上西門院などに仕え、歌道を通じて京都の知識人たちと親交を深めていた胤頼や園城寺の僧となっていた日胤から中央の詳しい情報がもたらされていた事により、平家の勢力が次第に衰退しつつあり、その動揺は全国に広がっていたなどの情報を得ており、その内容を的確に判断していた事によるものと考えられる。
   
   こうして、頼朝の信任を得た常胤は治承四年十月二十三日、相模国府で行われた論功行賞で下総国内における本領の安堵と新恩が給与された。 そしてこの後、源平の争乱や文治五年(1189)、奥州合戦の功績によって下総国内や上総国内を中心に東北地方から九州地方等に広大な所領を獲得し、幕府屈指の大豪族に成長した。

   なお、上総国内の所領は寿永二年(1183)十二月、上総介広常が頼朝によって誅殺された後に獲得した所領であったが、千葉氏が広常の遺領を継承した事で上総氏系の武士団を併合し、常胤は事実上、両総平氏の族長としての立場を獲得した。

    ここで少しさかのぼって、上総氏の動きについてレポートします。
   
  治承四年(1180)九月の段階で、頼朝が国家に対する謀反人であった事は言うまでもない。  いくら上総介広常が上総権介という国衙最有力の地位にあったと言っても、謀反人への加担にこれだけの地域から武力の結集が実現されているから、上総氏は国衙権力を超えて、既にほぼ一国規模で封建的軍事態勢を確立しつつあった事は疑いない。  それに対応する様に、上総国に於ける郡・庄規模の在地領主は、殆ど上総氏の一族で占められていた。

    まず、「吾妻鑑」の情報から上総氏一族としては、天羽庄の天羽庄司直胤、伊南・伊北の伊南新介常景・伊北庄司常仲、周西郡の周西次郎助忠、長南郡の長南太郎、金田郷の金田小太夫頼次等が挙げられ、上総氏一族が郡司・郷司‣庄司などの在地領主として発展を遂げていた事は明らかであろう。  しかし、上総国における上総氏の所領はこれだけに留まらない。
  市東・市西の両郡が上総氏の所領である事が判ってきた。 ,国衙を権力基盤とする豪族的領主の所領は国衙の所在する郡に集中するのが一般的であり、上総氏の場合も同様の状況が想定される。 また、上総権助広常滅亡の後、その所領は千葉常秀(常胤の孫)・和田義盛らの手に帰したと考えられるが、鎌倉中期頃の史料から常秀が年貢の徴収を行っていた事が確認されている事から、この両郡がかつて広常の支配下にあった事はほぼ間違いないと思われる。 

   熊野山領畔蒜庄(安房国境付近)は「吾妻鑑」の記述によると文治二年(1186)には、相馬常清・和田義盛が地頭となっており、しかも庄内の横田、大金、麻里の諸郡にそれぞれの郷名を苗字とする上総氏の一族があった事を示す史料から知ることが出来る。
  因みに、この庄園は熊野神社の別当家と婚姻関係をもった源為義が立庄の仲介にあたったとみられ、為義の子義朝は上総氏の庇護を得て上総国で成長し、「上総曹司」と称されているが、義朝は預所のような立場でこの地に居住していたのかも知れない・・・・。


   十二世紀の末、上総国の公領・庄園は国衙所在の旧市原郡、国一ノ宮所在の玉崎庄を中心として、上総氏一族がそのほとんどを支配下に治めていた事はほぼ疑いのないところである。
源頼朝・落馬伝説(相模川の橋脚復元)  神奈川・茅ヶ崎市
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