FC2ブログ

タイトル画像

両総の勇・上総氏・千葉氏

2019.10.20(07:00) 258

**千葉・上総一族

**下総の上総一族

   上総権介広常が頼朝の許に参向した際に率いた武力について、考えてみたが、広常に従った軍勢にについて、上総国の武士の他に臼井四朗成常・五郎久常・相馬九朗常清・匝磋次郎助常・印東別当胤常・大夫太郎常信・小大夫時常といった下総国内の地名を苗字とする者を記している。

   このうち相馬常清は「吾妻鑑」に広常の弟とあり、匝瑳助常・印東頼常も広常の甥と所見される。とすれば、上総氏の一族は上総一国のみならず、隣国の下総にまで勢力を拡大していたと考える事が出来る。
  上総氏が、下総の印東庄を所領とした事について確実な史料が残っている。  京都・醍醐寺に伝わる「醍醐雑事記」の紙背に偶然に残された文書三通の断簡である。 断簡の為正確な年代は不明で内容も完全にはつかめないが、凡そ十二世紀半ばのものと思われ、それぞれ「下総国印東荘郷司村司交名」・「平常澄解」という文書名で収められている。
  ここに見える郷司・村司は、二番目の「平常澄解」によって印東司の公文とか沙汰人という下級庄官であった事が判る。印東庄の下司であった「前権介平常澄」が預所菅原定隆と貢納の事などについてトラブルを起こした時、印東庄の本家に預所の非を訴えたもので、文面から常澄が村郷司である公文・沙汰人を日常的支配のもとに於いていた事が判る。 常澄は言うまでもなく広常の父であり、上総氏直属の武力がこうした村郷領主クラスの武士団によって構成されていた事が明らかである。

   上総権助広常の兄に印東次郎常茂があり、その子が印東別当頼常である。  常茂は父常澄から印東庄を伝領して印東氏を称したのであろう。  「吾妻鑑」治承四年十月条によると、頼朝追討の為、東下してきた平家軍の中に印東次郎常義なる者がいて、富士川の合戦で富士・鮫川にて源氏の軍に討たれている。 この常義は系図の常茂と同一人物と思われる。  

   相馬九朗常清の苗字地である相馬御厨は、上総氏の初代常晴が千葉常重に譲った土地である。  常重はこの私領を伊勢神宮に寄進して御厨としたが、国主藤原親通から官物の未進を理由に収公されるなど、支配権は安定しなかった。
  以前から、常重に相馬郡が譲渡された事に不満を持っていた常晴の嫡子常澄は、これに目を付け、上総で育ち鎌倉を本拠にして南坂東の武士団の統合を進めようとしていた源義朝と結託し、武威に物を言わせて常重に相馬御厨の譲渡証を強引に書かせて、自分の名をもって御厨を伊勢神宮に寄進している。
   しかし、義朝はこれによって御厨の下司職を得たのだが、彼は千葉氏の服属を達成すればそれでよかったわけで、相馬御厨の実際上の支配権はこれを機に義朝の従者となった千葉氏と、代官的立場を得た上総常澄の手に帰する事となった。

   その後、平治の乱で義朝が滅びると、今度は中央の権力と結びつきの強い隣国常陸の佐竹義宗が、相馬御厨はかつて下総守藤原親通が収公して以後、正当な所有権は親通の次男親盛に伝えられ、それを自分が継承したと主張して、御厨を千葉氏よりも有利な条件で伊勢神宮に寄進する事で、その在地支配権を奪取してしまった。
 これによって、千葉氏は相馬御厨に対する正当な支配権を失う事となり、上総氏の方は佐竹氏と婚姻関係を結ぶ事によって従来からの権益を確保していたのである。

   こうしてみてくると、匝瑳助常が下総国匝瑳郡に進出していた事も事実と考えられる。   さらに、広常の兄弟埴生六郎常益の苗字地が下総国埴生庄(成田市)であった事は、後に上総氏の遺領を継承した千葉常秀がこの地を所領としていた事実から明らかである。

下総国・郡庄図  (主に千葉氏所領)
下総国・郡庄図
上総国・郡庄図  (主に上総氏所領)
上総国・郡庄図
頼朝落馬伝説・自害した警固役10名の墓・・・・・・・懐島山龍前院 (神奈川・茅ヶ崎市)
頼朝警護の10名い

次回へ

令和元年・己亥・乙亥・庚寅
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


歴史雑学 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<両総の勇・上総氏、千葉氏 | ホームへ | 両総の勇・上総氏・千葉氏>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する