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両総の勇・上総氏、千葉氏

2019.10.25(07:00) 259

**千葉・上総一族

**下総の上総一族(続)

    次に、上総権助広常の軍事力を構成した武士団としては、今までレポートをしてきた上総一族の他に、臼井四朗成常・同五郎久常等の名が挙げられている。  成常は千葉常重の兄弟臼井六郎常康の孫、久常はその弟。   臼井氏は印旛沼の南に広がる臼井郡(佐倉市臼井)を所領とし、両総平氏の中で上総介・千葉介に次ぐ大族といわれ、有力な武士団であったと思われる。

   上総氏は下総各地に進出した一族の他に、血縁的には上総一族に包括しえない両総平氏の庶流をも軍事的統率下に置き、強力な勢力を誇っていた事が知られる。  十二世紀末における上総氏の支配構造は、上総国の権介としての権力もさることながら、両総平氏の族長としての権威も十分に考慮されなければならない。

   因みに、上総権介広常が頼朝に参向した際に率いて来た兵力について、「吾妻鑑」には二万騎とあるが、当時の周辺の豪族たちの状況から五千騎相当が想定される。   同じころ、頼朝を迎えた千葉氏の軍勢を「吾妻鑑」は三百騎と記しており、相模の三浦氏が衣笠城に籠った時の兵力が四百五十騎程というから、国衙を基盤とする豪族的武士団が直接掌握できた武力は三百~五百騎程度と思われる。  それは丁度、彼らの直接支配の及ぶ千葉庄とか、三浦郡と、その付近の範囲内で動員されたものであろう・・・・・。

   これに対して、頼朝を追討する側に立った相模の大庭氏や武蔵の河越氏等が、三千ないし数千の軍を率いているのは国家の権力を背後に背負っているからで、千葉氏や三浦氏とて叛乱側に組しなければ、数倍の武力を集める事が出来たはずである。 反乱者の立場に立った千葉氏や三浦氏は軍勢を集めるにあたり、その政治的・社会的権威を機能させることは出来なかったわけで、他の一郡ないし一庄規模の武士団と同程度の軍事力を持って頼朝に参向したものと考える。

   ところが広常の場合は、反乱者に荷担しようと言うのに、上総国はもとより下総国の上総氏一族以外の武士団までが広常の許に集まった。  上総氏は、小山氏や三浦氏と同じ豪族的領主と言っても、群を抜いた支配権力を確立していたと言える。
  上総国には、律令的郡でも11ある。  それに下総の一部も加えれば、少なくも五千騎は動員できたであろう。 「吾妻鑑」の二万騎は誇張だと思われる・・・・。
下総の上総権助広常軍団・・・臼井氏他
千葉氏系図
下総国・郡庄図

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