FC2ブログ

タイトル画像

鎌倉北条氏

2017.01.06(15:53) 26


**鎌倉北条氏の草創

*流人頼朝

平治の乱の直後、頼朝は14歳で伊豆国に流された。  以降十余年間は、ほぼ読経三昧の日々だったらしい。 
しかし二十代も末になってきた頃、流人の頼朝にも変化が生じ、伊豆国久須美荘の領主伊東祐親(suketika)の三女、八重と恋仲になったのである。   八重の兄・伊東祐清(sukekiyo)が、二人の間を取り持ったらしい。・・・・祐清は頼朝の乳母 比企尼(hikinoama)の女婿で、義母比企尼の命で頼朝に近侍していたのです。
頼朝の子・千鶴丸が生まれて間もなく、八重の父・伊東祐親が京都大番から帰郷したのである。  まだ平氏全盛の時代である、平氏の聞こえを憚った祐親は、千鶴丸を狩野川に沈め、八重はは伊豆江間郷の江間小四郎の許に嫁に出してしまう。 そして祐親は、頼朝を殺そうとまで考えていたようだ。
そのような頼朝は、伊豆西岸寄りの北条時政館に逃げ込んだ。 時政自身は在京中で、頼朝が頼りにしたのは、時政の嫡男宗時(munetoki)だった考えられる。    (吾妻鑑)

江間小四郎・・・・・・北条時政三男・・北条義時(伊豆時代に江間姓を名乗る説がある。)…三代執権泰時も?

時政館で傷心の日々を送る頼朝の前に現れたのは、時政の長女北条政子です。  治承元年に(1177)に頼朝31歳、政子21歳で結婚・・・やがて一の姫が生まれた。 薄幸の姫、大姫の誕生である。   大姫の誕生という事になれば、狭い伊豆国の事である。 たちまち噂は広まり、在京中の時政の耳にも入ったらしい。まだまだ平氏全盛の時代だ、先の伊東祐親と同様、時政も平氏の聞こえを憚り、・・・二人の間を割いて政子を館内に閉じ込めたという。この時政子は、まさに政子らしさを発揮、時政館を抜け出して、頼朝の許に奔ったのである。 後年、政子自身が、次のように語っている。

「君、流人として豆州におわす頃、吾に芳契(houkei)ありといえども、北条殿(時政)、時宣を怖れ潜かに引き籠められる。 しかるに、なおも君に和順して、暗夜に迷い深雨を凌ぎ、君の所にいたる。」

平安公卿の姫君にはない強さが、東国武士の娘政子にはあった。 この政子の強さが時政を押しまくり、ついに二人の結婚を時政に認めさせてしまったのです。

鎌倉時代後期・墓所(やぐら群)・・・まんだら堂やぐら群(神奈川県・逗子市)
DSCN2286.jpg
DSCN2292.jpg


安元元年(1175)、の頃は平氏の全盛には一点の翳りもなかった。しかし治承元年(1177)、6月には鹿ケ谷(sisigatani)の変があり、すでに反平氏の動きが始まっていた。  もともと東海道沿いの国府近くにいた時政である、京都政界の様相にも詳しかったと思われます。  そして最近の上京で、自ら京都の様子は見聞してきたばかりだ。  いわば娘政子の結婚事件を契機として、秘かに頼朝に一身をかける決心をしたのかもしれない。
鎌倉北条氏興隆の端緒となる頼朝・政子の運命の芳契には、その基礎に時政の野望が秘められていたのかもしれない。

*山木館夜討ち

頼朝の挙兵は、治承四年(1180)8月17日子の刻(午前零時)山木兼隆(kanetaka)館の夜討ちだった。
五月に以仁王(motihitoou)、源頼政(yorimasa)、伊豆守仲綱(nakatuna)らが宇治川で戦死した直後、平時忠が知行国主となった伊豆国で、兼隆は目代に登用されていた。
この時頼朝は、時政館に留まっていた。  北条一族の惣領や在庁官人の工藤茂光(motimitu)を差し置いて、時政が山木攻めの指揮を執ったという。 頼朝の義父と云う立場が、尊重された様だ。 次回に続く

丁酉・壬寅・癸巳
スポンサーサイト





鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


興隆と滅亡 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<鎌倉北条氏 | ホームへ | 鎌倉北条氏>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する