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両総の勇・上総氏、千葉氏

2019.10.30(07:00) 260

  **千葉・上総一族

**苦闘する武士団・千葉氏

   千葉氏は下総千葉庄を本拠とする武士団で、その所領規模に於いては臼井氏等下総に割拠するほかの両総平氏一族と大差なく、下総権介職を世襲するという点ではほかに優越する地位を占め、両総平氏の中では上総氏に次ぐ武士団を構成していた。

   十二世紀前半の千葉氏の所領としては、苗字の地である千葉庄の他、平忠常が居館を構えたという大友政所台を含む立花郷、常重が伊勢神宮に寄進をして下司職を得た相馬御厨、千葉氏が在庁官人の立場を利用して所領化したとみられる国分寺(市川市・国分)があり、上総国の山辺北部にも勢力を伸ばしていたらしい。
 この段階では、千葉氏の所領はかなり大きく、国内の同族武士団に対して優越した立場に有ったと思われる。

   ところが、これらの所領のうち相馬・立花の地は、国主藤原親道に公田官物の未進を理由に没収されてしまう。 しかし、その後相馬御厨については源義朝の介入もあって実質的な支配権を一応回復できたようだが、平治の乱で義朝が滅びると、親道の次男親盛から御厨の権利を譲られたという主張する隣国常陸の佐竹義宗によって、完全に千葉氏の権益は失われることになる。

   従って、十二世紀の後半になると、千葉氏の所領は半減して、確実なものは本領千葉庄の他葛飾郡国分寺・上総郡山辺北部堺郷(東金市)に過ぎなくなる。

   当時、下総国内の武士団としては、上総氏の庶流をはじめとする両総平氏の一族の他千田庄(多古町)・匝瑳北条(匝瑳市)・橘庄(立花郷)の藤原氏、豊田郡(常総市)の豊田氏、下河辺庄の下河辺氏、葛西御厨(江戸川区)の葛西氏等の諸勢力が割拠していた。 上総権助の地位を有する千葉氏ではあったが、他を圧倒しうるような、絶対的な実力を持ち得なかった事は明白であろう。

**為光流藤原氏の下総進出

   下総国内の諸勢力の中で、むしろ東国全体においても特異な存在がある。 千田庄・匝瑳北条・橘庄、即ち下総国の東北部一帯を支配下に置いていた藤原氏である。  なぜ特異かというと、千葉氏等のような地方軍事貴族の後裔でもなく、自ら広大な耕地の開発を実現した在地領主でもなく、さらに武士の出身でもなかったからである。
  この藤原氏こそ、千葉氏の手から相馬御厨を没収した国主藤原親通の子孫、つまり、れっきとした中央貴族なのである。

   親道は太政大臣藤原為光から五代の子孫で、父の伊信は侍従・長門守に任じ正五位下に叙せられた中流貴族である。 下総守の任期切れを目前にした親道は、香取社の造営を条件に重任を申請して康治元年(1142)まで在任し、子息の親方を下総守とする事に成功している。
  このように親道が下総守の地位に執着したのは、相馬御厨や立花郷を千葉氏の手から奪い取った事に観られるように、下総国内に自分の庄園を設定するとともに、強力な在地支配権を貫徹しようとした為であろう。  かくして、国主の権力と中央貴族としての権威・政治力にものを言わせる親道・親方父子の前に、千葉氏をはじめとする在地勢力は次々と屈服を余儀なくさせられたのである。

   このように、藤原氏は中央貴族社会の一員としての立場から下総の在地勢力の上に君臨しようとしたが、平治の乱以後の平氏の台頭はさらにその立場を有利に展開させた。  というのは、次男親盛の子親正が平忠盛の女を妻に迎えて清盛と義兄弟になっていたばかりでなく、彼の姉妹の二条院内侍が重盛との間に資盛をもうけるに及んで、親正は平家と二重の婚姻関係で結ばれる事になったからである。
  下総藤原氏は、十二世紀の後半には平氏との関係を背景に、さらに在地支配権を強化していったのである。
頼朝に従った大庭景義居館跡    (神奈川・茅ヶ崎懐島)
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源氏が関東進出する際最初の氏神社・・・・・鶴峰八幡宮 (茅ヶ崎市)
鶴峰八幡宮
下総国・郡庄図 12世紀後半
下総国・郡庄図

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