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両総の勇・上総氏・千葉氏

2019.11.05(07:00) 261

**千葉・上総一族

**千葉氏の展開

    治承四年(1180)九月、頼朝への参向を決定した千葉氏が手始めに、平家方で在地に大きな勢力をもつ下総国の目代を国府に討った事を聞いた藤原親正は、匝瑳北条の内山館から一千騎余りの軍を率いて千葉氏追討に向かった。  この時親正に従った武士は、すべて鴨根三郎常房および原四朗常宗の子孫で、千田庄・匝瑳北条に苗字地を持つ武士団であった。

   当時の東国の庄園は、都から遠いために在地領主である下司の権利が強く、荘園領主である中央の貴族や寺社は、年貢さえ挙げてくれればそれで満足し、現地に直接的な支配を及ぼすことは殆どなかった。 親正の場合は、祖父親道以来、着実に築き上げた在地支配権と国家の兵馬の権を掌握した平氏の力を背景に、在地武士団を直接自己の軍事統率下に組織していたのである。

   こうした状況の下で、千葉氏の立場はますます悪化していったと思われる。  千葉氏が源義朝に相馬御厨の下司職を奪われたにもかかわらず、その配下に属したのも、直接的には藤原氏の勢力拡張の動きに対する為であったと見られるのである。  しかし、それも義朝が反逆者として逃亡すると、かえってマイナスに作用する事になる。
   平家と結び、下総藤原氏とも親しい関係にあったとみられる常陸の佐竹氏が、藤原親盛から相馬御厨の権利を公に譲られたとして、その在地支配権を主張するに際して、千葉常胤を 「大謀反人源義朝の年来の郎党」とあげつらっている事に現れている。

**千葉常胤の子息

   頼朝の挙兵に際し、千葉氏が積極的にこれに荷担した背景には、これ迄レポートしてきたような下総の在地状況を最も重視しなければならないが、その他に直接的・具体的契機として、常胤の子息で近江園城寺の僧となっていた日胤と六男胤頼の行動を挙げる事が出来る。

   治承四年(1180)五月、謀反の企ての発覚を知った高倉宮以仁王は、三条高倉の館を脱出して三井寺に逃げ込み、反平家の衆徒たちはこれを迎えて守護した。  その衆徒の数は七十人ばかりで、律上房と尊上房の両人がリーダー格であった。 この律上房こそ、千葉常胤の子日胤なのである。
  日胤はその後、興福寺の大衆を頼んで南都に逃れた以仁王に従っていたのだが、宮が平氏の追討軍のために加幡河原(京都・山城)で討たれた後、敵の中に入り戦死したと伝わる。

    日胤は、伊豆配流中の頼朝とも密かに連絡を取っていたらしい。  (吾妻鑑)
 頼朝は治承四年五月、平家追討の祈願所を日胤に送り、これを受けた日胤は一千日を目標に石清水宮寺に参籠していたところに、以仁王の三井寺入りの情報を得て、頼朝の祈願書を以仁王に届け、ついに討ち死にを遂げたという。

   この記述は、日胤が石清水宮寺に参籠した日数に疑問が残るが、日胤が後に述べる胤頼などを通じて頼朝に中央の情勢、特に寺社勢力の反平家的状況を伝える事で頼朝を挙兵に踏み切らせる大きな力となった事は想像できる。
石清水八幡宮本殿 (京都・八幡市)
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石清水八幡宮・一の鳥居
石清水八幡宮
下総国・郡庄図
下総国・郡庄図

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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