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両総の勇・上総氏・千葉氏

2019.11.08(19:00) 262

**千葉・上総一族

**千葉常胤の子息 (続)

    日胤は千葉常胤の何番目の子息か不明であるが、他の六人の男子はすべて常胤の正室の子である事が判っている。  常胤が大番役などの為に上洛した際に、京都の女性との間にもうけた子と思われる。
 
    胤頼は常胤の六男で、弱冠の頃から京都に上り滝口の武者となって御所の警備にあたった。  滝口に仕えるには、皇族とか有力貴族の推挙が必要である。  千葉常胤は、佐竹氏と相馬御厨の領有を争った時、右大臣の藤原公能に伊勢神宮の祭主に口をきいてもらった事実があるので、胤頼の滝口勤仕も公能の子の徳大寺実定あたりが挙申したのではないかと考えられている。
 滝口に祇候した胤頼は、ここで遠藤左近将監持遠という武士と面識を得たらしい。  遠藤氏は摂津国渡辺党の武士団で、この当時、代々が滝口の武者として都に出仕しており、一族の若者が胤頼と同輩というような関係が成立する・・・・・。
   胤頼の人となりを見込んだのであろうか、持遠は自分の仕える上西門院(鳥羽天皇皇女・統子内親王)に胤頼を推挙した。

    上西門院の母障子(待賢門院)は、千葉氏の中央における庇護者である徳大寺家の出であり、そんな事も幸いして胤頼は上西門院の侍となり、その御給によって従五位に下に叙せられたのである。

**怪僧・文覚

   高雄の神護寺再興の為庄園の寄進を後白河に迫って伊豆に配流され、そこで頼朝に平家討滅を進めたという文覚は、遠藤持遠の子で、出家する前は遠藤武者盛遠といって上西門院に仕える侍であった。   胤頼は、持遠や上西門院との関係から文覚とも親しくなり、やがて師と仰ぐようになった。  平氏を仏敵と見る文覚と、下総で平氏の威を借りる目代や藤原氏等の在地勢力に存在を脅かされている千葉氏の一員としての現実的体験とが、平氏討滅という共通の意思で結ばれた側面も認められると思う。

   配流中の文覚が度々蛭ヶ小島の頼朝を訪ねて挙兵を促したが、頼朝は慎重であった。  当時の政情に詳しい慈円の書に、正式な院宣は出ていなくとも、文覚の行動の背景には院や藤原光能の意思が働いている可能性が強いことを認め、頼朝に挙兵を踏み切らせたのは以仁王の令旨よりも、むしろ文覚の勧告が大きかったという説もある。

   「吾妻鑑」に、京都大番役を果たした後、以仁王の挙兵の為官兵として動員され、帰京が遅れていた千葉胤頼と三浦義澄が伊豆北条の頼朝の許を訪れて余人を交えず密談したという記事があるが、この内容は早速、胤頼から文覚の許に知らされたと思われる。
  それが文覚の奔走に結びつく行動だとすれば、鎌倉政権樹立における胤頼の功績はかなり大きかった事になる。 それは平治の乱以後の千葉氏の置かれた切迫した状況を背景とするものであった。

    それにしても以仁王の挙兵に際し、官兵として宇治合戦に動員された胤頼の心中は察するに余りある。 自分の意思とは正反対の行動をとらざるを得ない状況である、しかも敵の中には、兄弟の日胤がいる。  在京することの多かった胤頼にとって三井寺にいた日胤は心強い存在であり、日頃から密かに連絡を取り合っていたと思われる。
 日胤の戦死を聞いた胤頼は、さらにはっきりと平氏打倒の意思を固めたに違いない。  伊豆北条における頼朝との密談の際、胤頼の弁舌は相当に熱のこもったものであったろう・・・・・。

   下総に戻った胤頼は、父常胤に都の状況や後白河院の意思を述べ、頼朝の挙兵への参画をを求めたはずである。  日胤の死は常胤の心を大きく動かした事であろう。 千葉氏にとってこの胤頼と日胤の存在は、在地における危機的状況とともに、頼朝挙兵への加担を決する上で大きな背景をなしたのである。
千葉氏略系図 12世紀~
千葉氏系図
下総国・郡庄図  12世紀
下総国・郡庄図
神護寺再興・尽力 文覚上人鎌倉邸跡  鎌倉大御堂付近
文覚上人邸

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