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両総の勇・上総氏・千葉氏

2019.11.15(07:00) 263

**千葉・上総一族

**千葉氏の決断

    石橋山合戦に敗れ安房に上陸した頼朝は、従者・藤九郎盛長を千葉庄の常胤の許に遣わし参向を求めた。  
  「吾妻鑑」によると、常胤は盛長の口述を聞くばかりで、暫くは言葉を発しなかった。  傍らにいた嫡子胤正と胤頼が業を煮やして 「 このような義挙に最前の召しを受けたからには、猶予に及ぶこともありますまい。 早速、了承なさるべきでしょう 」 と異口同音に述べると、常胤はようやく 「 召しをお受けする事に、もちろん異議があるものか、源家中絶の跡を興しになられる事に感涙があふれ、言葉に詰まっただけのことよ 」 と答えたという。

   在地の危機的状況からみて、千葉氏の頼朝参向は予定の行動と見るべきだろう。  常胤が敗残の謀反人である頼朝に参向した事は、確かに大きな賭けかも知れないが、これはかつて義朝の家人であったから源氏に忠節を尽くそうとしたという単純な理由ではなく、千葉氏自身の直面する深刻な在地の状況を打開するための、主体的な行動として捉えなければならない。

   というわけで、千葉氏は形として頼朝の挙兵に呼応したが、実は自ら蹶起したという方が正しいのかも知れない。
  治承四年九月十三日、胤頼と常胤の嫡孫成胤が、平家方人として大きな勢力を持っていた下総目代を急襲したしたのは、まさにそのあらわれにほかならない。  常胤は国衙を掌握する事によって、下総国内に割拠する同族に対して千葉氏の絶対的優位を主張し、同時に国内の親平氏勢力に公然と挑発をしたのである。
  翌日には、匝瑳北条の内山館にいた藤原親正は配下の武士団に檄を飛ばし、すぐさま千葉氏討伐に向かった。  平忠盛の婿として平氏の権力を背景に在地支配を進めてきた親正にとって、千葉氏の反乱は放置できない。  親正の軍一千余騎を構成したのは、前述した通りすべて千田庄及び操作北条に分立した両総平氏の一族であった。

   内山館を出発した親正の軍は武射の横路を越え臼井の馬渡を渡り、電光石火の勢いで千葉庄に向かった。  これを迎え撃っのは、常胤の嫡孫・加曾利冠者成胤である。  常胤をはじめとする千葉氏武士団の本隊は、頼朝を迎えるために上総に行っていたからである。  藤原親正が、千葉氏討伐の軍を起こすのは常胤の予想するところであったろうが、目代を討った翌日に親正の軍が早くも攻撃を仕掛けたのは、大きな誤算であったと思う。

   千葉氏の館は、現在の中央区亥鼻辺りの高台に想定されている。   台地上からは千葉市街と東京湾が一望できる交通の要衝に位置する。

   千葉氏の所領規模については先に述べたが、千葉庄内の各地に常胤の庶子や孫が分立しして未墾地の開発を進めていたようで、三男の胤盛は武石郷(花見川区)、四男の胤信は田辺田郷(若葉区)、嫡孫成胤は加曾利郷に館を構えていた。 また、常胤の弟の椎名五郎胤光も千葉庄椎名郷(緑区)にいて、千葉氏の武士団に属していた。 しかし、成胤が千葉館の留守に残ったほかは、すべて上総に出払っていたらしい。 そこを親正の一千余騎の軍が襲い、千葉庄は蹂躙されるに至ったのである。  成胤は、使者を上総に送って常胤に来援を請うとと共に、僅かの手勢を率いて親正に合戦をを挑んだ。  弱冠十七歳の成胤は敵中を駆け抜け、親正軍を上総方面に引きずる形で力戦したという・・・・。しかし、劣勢の成胤の軍は敗色濃厚となったが、折よく頼朝を迎えに出だ上総介広常の軍が合流し難を逃れたが、重代相伝の堀之内を敵軍に蹂躙されてしまったのである。 

   この千葉成胤と藤原親正の合戦は「吾妻鑑」に詳しい記述がないために、ほとんど注目されなかった事実であるが、その意義は鎌倉政権樹立にとって大きな出来事であった。
藤九郎盛長(安達)邸旧跡   (鎌倉・長谷)  甘縄神明社付近? 
盛長邸・石塔
下総国・郡庄図  12世紀後期頃
下総国・郡庄図
千葉氏系図 12世紀後期
千葉氏系図

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鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)


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